野田村から南下する途中で見た光景だけで十分なのだが、被災地はこれでもか!というほど続く。
宮古市内に入ると、港に近い地域がかなり埃っぽい。市内は大きな瓦礫が取り除かれており、今まさに乾燥した泥の回収をしているからだ。宮古の市瓦礫撤去はかなり進んでいる。
宮古と言えば何と言っても浄土ヶ浜である。小学生の頃に修学旅行で行った覚えがあるし、その後も何かにつけて訪れることが多かった。その思い出が詰まった場所に向かおうとするが、標識もなく、建物もなく、ナビで示された道もところどころ通れない。特に狭い路地が入り組んだ場所に入ってしまった私は、ナビのたった数メートル誤差で自分が今いる場所を特定できなくなってしまった。
瓦礫撤去が進むそのまっただ中で、警備のためだろうか、仁王立ちしている警察官に道を尋ねた。建物がないとなかなか道案内も難しい。警察官は「あの遠くのクレーンが見えるでしょ?ここからあそこに向かって走って、手前の十字路を左に」と教えてくれた。心細い道案内だが仕方ない。車を降りないとどこが十字路なのか解らないのだ。周りの景色とナビを照合しながら言われたとおりに進むと、ようやっと抜けることができた。
浄土ヶ浜の駐車場。震災前は多くの観光バスが止まっていたが、今は工事関係者以外に人影はない。写真の左側には「浜」まで続く道があるのだが、道路のところどころがひび割れしており、通行はできない。入口で見張っている観光協会の方らしき方に浜まで行きたい旨を話すと、歩いてなら行っても良いとの事。浜まで1キロほどを歩くことにした。
歩き始めて数分、道路から浄土ヶ浜が眼下に見渡せるようになる。震災前に比べると、浜がところどころシミのように黒ずんでいるように感じる。
近くまで行くとはっきりわかるのだが、白い石と石の間に小さなごみが詰まっている。黒ずんでいるように見えていたのはそのせいであろう。細かい海藻などのごみはいずれ波が洗い流してくれる。
それでも美しいたたずまいを見せてくれる浄土ヶ浜。まるで何事もなかったようだ。ここまで瓦礫を片づけた努力は並々ならぬものがあっただろう。事実、震災後 Google Earthで見た浜は瓦礫の山が築かれていた。
お土産を売っていたレストハウス。ガラスがすべて割れてしまったのだろうか、ベニヤ板で覆われていた。
1台だけ車が止まっており、観光協会の方であろうか、黙々と目につく流木などのごみを拾っていた。地道に拾い集めるしかない、そのような意気込みというか、忍耐強さが伝わってくる。
浜の端の方に行くと、重機がなければどうしようもない瓦礫がまだ残っていた。キャタピラが水面から顔を出している。
入口に居た観光協会の人に挨拶をして市役所に向かうのだが、私が居る間にも何台かの観光客らしい車が入口で止められていた。みな残念そうに去っていくのだが、歩いて行こうと考える人はいないらしい。あるいは取材らしい「出で立ち」の私が特別に許されたのだろうか。
宮古市役所はまだ停電が続いているのか(?)内部の階段は裸電球だった。一階は水没したのだろう、べニア板を張られて機能していない。全体的に暗い雰囲気で、張り紙なども数多く残っていた。外の明るさとは対照的だ。
釜石市に向かう途中、大槌町方面の集落を反対側の45号国道から望んだ姿。爆撃を受けたような感すらある。大槌、山田町にも立ち寄ったのだが、なかなか閉鎖的な感があった。国道から大槌に向かう侵入道路に警察官が立っていたのが印象に残る。
冒頭で述べたが、ここまでの状況を見るだけで通常は十分だろう。どこに立ち寄っても瓦礫、汚泥、埃。警察官、ダンプ、重機、被災者。それだけは何も変わらない。小さな街も、大きな街も、案内板がなければそこがどこの街かすらわからない有様なのだ。しかし、ここからはさらに震源地に近くなり、同様に被害も大規模になる。
つづく。