久慈市に至る道も究めて順調な流れで、一度も渋滞に合う事はなかった。ただ、久慈市は比較的大きな街なため、市内はところどころで混雑している。
港は後片付けが進み、がらんとした空間になっている。港の外も瓦礫の撤去などは進んでいるが、まだ至る所が埃っぽい。久慈市の堤防も立派なものであるが、ここもまた10メートルの津波で楽々と超えられてしまった。海岸工学委員会の計測では潮位補正後で9.8mだったとのこと。
ただ、堤防自体は特に際立って崩れた部分は見当たらない。強度は十分だったのだろう。
久慈の街は極めて平静で、埃っぽさやところどころにある瓦礫、破壊された建物を見なければ、通常の生活と変わらない風景だ。
久慈市の合同庁舎は比較的港から離れた場所にあり、被害もなかったのだろう。比較的新しいのか、明るく、雰囲気的に殺伐とはしていなかった。
洋野町から久慈に向かうと、久慈には45号線の大きな橋がかかっており、ともすると行き過ぎてしまう。私も行き過ぎてしまって戻った。街も開けた明るい雰囲気があり、他の町や村とは少し風景が異なっていた。なるほど「市」なんだなと思ったが、実際、下に降りてみると、ここもまた被害が大きかった。ただ、大きな市なのに瓦礫は思ったより少ない。
後で気づいた事だが、瓦礫の量は5万トンと、宮古市の116万トンに比べ、市としては多くない。海沿いに木造住宅が少なかった事もあるだろうし、あるいは久慈市の都市計画が功を奏したのかもしれない。なんと野田村でさえ11万トンなのだから。ちなみに、久慈市の人口は約38,000人、野田村は約5,000人、宮古市は約60,000人なのです。
やけに都会的な雰囲気を持つ街だと思いつつ、次の野田村へ出発。
つづく。