そもそも早起きしたのは、沿岸の道が混むであろうと思った事だった。
八戸市内を抜けるときは通勤時間にかかりつつあり、若干混みはしたものの、洋野町に向かう道は順調そのものだった。
洋野町は死者はなかったものの、ウニなどの名産が打撃を受けている。いちご煮やうに丼はこの地の名物でもある。
後に役場の方とメールでやりとりして判ったのだが、被災直後は電気が落ち、テレビも見れず、携帯ラジオなど持っている者もなく、携帯電話も、ましてやインターネットも使えず、頼みの綱の地デジも見ることができず、情報が全く入らなかったそうだ。さぞかし心細かったことだろう。
私は現地で話を聞いたとき、避難所で地デジが観られないのかと勘違いしてしまった。都市圏に住んでいる人は、上記メディアのうちのいずれかは使えたはずだが、このように何も使えなかった地域も存在するのだ。洋野町は本州にあり、決して孤島ではない。
地デジの事では私も被災直後に不便な思いをした。国見で高速を降り、仙台に向かう道のりで車に搭載していた地デジを観ていたのだが、山陰に入ったとたんに見えなくなってしまう。特に渋滞していると数キロ進むために1時間もかかってしまい、その間も見えない時間が続いた。
実はあまりに早く到着したため、40分ほど待っていたのだが、その間に浜を見に行ったり、役場の一階を物色していた。洋野町役場は写真の通り吹き抜けの上に天井から日差しが差し込み、とても明るい雰囲気。ただ、中央部分の片側が円形にせり出しており、若干窮屈感がある。三陸の地形を模したのだろうか。
ところで、三陸沿岸を縦断する45号国道だが、道の標高が低く浜に近い部分には看板が立っている。「これより先、津波浸水想定区域」と、「津波浸水想定区域、ここまで」の2つである。
どうにも不思議なのは、けっこう標高の高い場所にこの看板がある事だ。今回の津波ではこの場所を超えて押し寄せたところもあるようだが、多くはここより下か近くまでで止まっており、そこまで想定していたのなら、もっと高い堤防を作っていても不思議はないという事だった。ただ、堤防の多くは後ろ側を土砂で覆う事で強度を保っており、津波が堤防を越えとしまうと後ろ側が掘られてしまう事から「パタ」っと倒れてしまう。高層ビルのように地盤まで杭を打っていた訳ではないのだ。今後、そのような作りの堤防は無くなるだろう。
生態学者の宮脇昭氏は、この土砂の堤防に木を植える事を提唱している。効果のほどを疑問視する学者もいるのは事実だが、針葉樹林の根は強く、まんざら無駄ではないと私は思う。私は面識がないのだが、私が現在活動しているiSPPの方からその話を後日聞いた。
洋野町のような街にもひとつのドラマが存在したのが今回の震災。ニュースには出ない街ではあるが、被災者は一様に当日不安な夜を過ごしている。次の目的地は久慈市、りっぱな堤防を持つ市である。
つづく。