盛岡を出発して、八戸に向かう途中の高速道路は車がまばら。震災前もそうだったのだろうが、盛岡での車の流れを考えると少し寂しい。三日目に宿泊した時に思ったのだが、盛岡から宮古に向かう道路より、花巻から釜石に向かう道路の方が圧倒的に混んでいる。これは遠野が後方支援の基地になっている事や、陸前高田などの地区に向かいやすいという利点と、峠が少なく大型のトラックが通りやすいからだろう。
一泊目、八戸の市街地に宿泊。駐車場で車の幅がぎりぎりな点を指摘され、車が設備にひっかかったりすると賠償がどうのこうのと、はっきり「入れられません」と言われない事に腹が立った。震災後、どこかの役所の人も似たような言い回しで断っていたっけ。それを思い出してしまった。結局「お勧めしないんですよね?」と聞いたら「はい」と言うので、近くの駐車場に入れた。最初からそう言え。そう心でつぶやいた。
ホテルで翌日のスケジュールと走る距離の確認をし、食事に出かけた。幸い、ホテルのほどよい近くに文化財並みの料理屋さんがあったのでそこに入る事にした。料金はやや高めだが、した味に十分手間をかけており、納得できる味。客層を観察してみると、どうやら接待やデート、カウンターでは地位のある人が一人で食べている、そんなお店らしい。壁に貼ってあるレトロなポスターを眺めつつ郷土料理に舌鼓を打っていると、余震が起きた。
仙台にいると、岩手県沖の余震はあまり感じない。しかし、ここ八戸ではグラグラと揺れている。近いのかと思い地震の発生源を追ってみると、八戸と仙台のちょうど中間地点なのだ。出発前の情報でも八戸は地震が多いと言われてきたのだが、その意味がやっと解った。回数ではなく、体感が全く違うのだ。1ランク上の余震に感じる。
翌朝は6時に出かけ、まずは八戸港に向かった。ちなみに私は朝食を食べないので支度は早い。八戸港は震災時に小学生が調査船に取り残された港である。写真のように市場は下の部分が流されて解放されてしまっているが、中はきれいに片付いていた。
ただし、被害がなかったわけではなく、今でも隠れた部分に爪痕が残っている。建物もいくつか掃除されていない状態で残っていた。朝の港にはまだ漁師の姿はなかったが、復旧のためだろうか、作業着を着た人が数人立ち話をしていたり、車で誰かを待っているようだった。
港で30分ほど過ごしたのち、洋野町に向かうのだが、その途中、市内では小学生が通学する時間帯にぶつかった。そういったときによく見られるふざけあって笑い声が聞こえるような光景ではなく、急ぐように歩いていたのが印象的だった。
余談だが、この記事を書いている2日ほど前、震度5弱の余震がここを襲った。その直後に港の近くの人はみな走って逃げたらしい。堤防が壊れてしまっているため、比較的小さな津波でも奥まで入り込んでしまう事を懸念しているとの事だった。先に書いた通り、八戸では余震の揺れがなぜか大きい。いつまた余震があるかわからない、その恐怖感がまだ続いているようだ。
続く。