久慈から野田村への道も順調。距離もあまりなく、山間部を通るためか特に印象に残らない道だが、野田村に入ると突然破壊された町が現れる。
瓦礫撤去が進んでいるせいか、粉じんはあまり感じなかったが、その分遠くまで景色が見渡せた。上の写真は堤防側から内陸部を見た風景。八戸から南下してくると、この辺りからの被害が大きいと感じる。ビジュアル的に壊滅の様子が身に迫ってくるからだろう。
海沿いに行ってみると、堤防が破壊されているのが見て取れる。下の写真がそうだが、拡大して人の大きさと比べてみて欲しい。
その堤防のすぐ内側である。多くの木がなぎ倒され、堤防が破壊されても、津波のエネルギーは止まらず、役場のすぐ手前まで津波が襲った。
町から撤去された瓦礫の山は、少し離れた場所に山積みになっていた。この様な山積みは沿岸の町に必ずと言って良いほどあり、陸前高田などは、この山が町中のいたるところに点在している。
実際、この瓦礫を後で分別し処分する事になる訳だが、誰かが勝手に無償でやってくれるはずもない。処分には2〜3年かかる地区もあるだろう。瓦礫には汚泥も多く含まれているため、衛生面でも心配がある。事実、この記事を書いている頃には、丸々と太ったハエがいたるところで飛び交っていると聞き及んでいる。ハエトリ紙が人気商品の様だ。
野田村役場の近くには物資集積場、避難所があり、その一角だけ人が多かった。カメラをぶらさげての取材であるが、幸い「何しに来た!」という罵声を浴びる事はなかった。役所の中は至って平穏で、ある程度片付けが終わってひと段落した状態である事が一目で分かった。
こういった町では防災システムも破壊されており、その再構築は急務である。もちろん、役場の担当者はしかるべき上流の行政にその辺りを伝えに行ったようである。同規模程度の他の町と比べて瓦礫の撤去が進んでいる現状に、職員は少々自慢げであった。
ここから普代、田野畑村へといく訳だが、リアス式海岸が険しくなるエリアであり、震災直後は孤立したであろうと予想される。
つづく。