記憶を留めるために、書き殴り連載します、誤字脱字はご容赦下さい。
5月の終わり、31日に八戸に入った。
八戸に入る前、岩手県立大学へ立ち寄り、お世話になった教授のお話を聞いた。今回の震災では、後方支援として多くの方が関わっており、ここ岩手県立大学もそのひとつである。
宮城県・白石の高速道路上で被災した私は、仙台市内に戻るまでに9時間を要した。実は郡山の実家に戻りたかったのだが、仙台に住居を持つ社員が2名いたため、そちらを優先して仙台に戻った。戻り道、橋のゲタがズレて段差ができた道路、高架線が倒れた新幹線の高架橋、いたるところにあるひび割れ。そんな様子を脳裏に浮かべ、東北道を北に向かったのだが、100Kmで走るには十分すぎるほど修復されていた。あえて難を言うなら、仙台北部道路が酷い。しかし、それでも十分な速度は出せる。
岩手県立大学に震災の爪痕は見当たらず、学生もいたって明るかった。もちろん20代初頭の若者が数か月前の震災をひきずり、暗く過ごしているはずもなく、そこに若さゆえの生命力と言うものを感じた。誰がこの世から消えようとも、彼ら、彼女らは逞しく生きていかなければならないのだから。
今回の震災でご苦労された岩手県立大学にしても、ツイッターでは教授にまかせてて良いのか的な発言を受け取った。どの教授ではなく、すべての教授を指し示すその言葉は、常日頃、一般市民と隔絶された場所で研究を続けている事からなる閉鎖的な雰囲気からくる感情だろう。また、原発問題で発言している専門家と称する教授の発言に飽き飽きした市民の反応なのかもしれない。いずれにしろ、この岩手県立大学の教授はご苦労されている。1つが全てではない事を付け加えておく。
盛岡県庁も震災の傷跡らしいものはなかった。だが、こちらは行政という事もあり、震災から続いているのであろう緊張感がそこにあった。緊張感を感じるのは節電のせいもあるだろう、どことなく薄暗く、明るい復興にはほど遠い雰囲気である。人間には希望の光という言葉があるように、光は感情的にも重要な位置を占める。原発の失敗は、こうした人間の心にまで作用する深刻なものであることを忘れてはならない。それにしても、この暗さは宮城県庁の比ではない。建物の作りもあるのだろう。宮城県庁のロビーは3階まで吹き抜けで、とても明るい。仙台市のメディアテークや宮城県立図書館は周りの景色から浮きすぎて違和感がある。私は好きではないが、宮城県庁の建物は好きと言えば好きだ。落ち着いたたたずまいだから。
盛岡県庁
ゴーフォワード・ジャパンという組織の方にお世話になり、震災後の事を聞きつつ県庁に連れて行って頂いたのだが、実際の盛岡はかなりの温度差があり、何事もなかったような雰囲気であるとも話していた。事実、確かに平穏で、市民は何事もなかったように過ごしている。今は離れるが、この盛岡には、翌日の夜再び戻ってくることになる。被災地の近くの宿は一杯で宿泊が困難である事、支援者が泊まる宿を奪う事はできないこと、そういった事から沿岸から内陸まで毎日戻る事にしたのである。
続く。