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とある読者から
「難解なので私の想像です。
数式の単語を使用して「生と死」の問題を論議しているのですか?
このような文学のジャンルを「哲学」?
本も出版されいる様子ですが、素人に簡単に解説して頂ければ幸甚です。 」
という問いがありましたので、この場を借りてお答えいたします。
私が常に自問自答している事は「存在」についてです。時に数式なども持ち出すのはそれが哲学であれ、科学であれ、数学であれ、宗教であれ、「存在」を語れるのであれば私は何でも利用します。
そして、私がずっとこだわり続けている事は「1=1」が成立するのに1と記号化された「存在」は果たしてそれをどのようにそれを受容するのか。つまり、「1=1」における「存在」の情動について、唯、問うているに過ぎません。
それ故に私がこのブログで書き綴っているのは「哲学」や「小説」ではなく「思索」それも「夢幻空花な思索」としか言えないものです。因みに夢幻空花とは病んだ目にのみ見えてしまう夢や幻の類の事です。
簡単ですが以上をもって私の答えとさせていただきます。
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――いや、それは解からない。唯、懊悩する《吾》が此の世に《存在》する以上、神もまた「《吾》とは何か?」と懊悩してゐると考へた方が自然だ。
――考へた方が自然だと? 何故かう言ひ切れぬのだ! 「神もまた《吾》たる己自身に懊悩し、己自身を呪ってゐる」と――。
――さう看做したい奴がさう看做せばいいのさ。へっ、神は神出鬼没 且、変幻自在だぜ。
――つまり、唯識がさうであるやうに《吾》次第で如何様にもなり得ると?
――勿論。さうでなけりゃ、神といふ名若しくはそんな言葉は捨てるんだな。詰まる所、神自身が己に対して懊悩し、呪ってゐると神自ら自己告白して懺悔したとしても、それは神を神たらしめるだけの単なる神の更なる権威付けに過ぎぬのさ。何故って、さう神が告白すれば、ちぇっ、神が全《存在》の懊悩を背負ってゐると看做す事に逢着するだけに過ぎぬのさ。
――え? 神が全《存在》の懊悩を背負はずして、一体全体何が全《存在》の懊悩を背負ふのだ?
――《吾》さ。
――《吾》?
――さう、神は神自身の事だけ背負へばいいのさ。当然、《吾》は《吾》の事だけ背負へばいいのさ。
――神自身の事や《吾》の事とは一体何の事かね?
――約(つづ)めて言へば、《存在》する事の悲哀さ。
――そんな事は疾うに解かり切った事じゃなかったっけ?
――さうさ。疾うに解かり切った事だ。しかし、その疾うに解かり切った事を未だ嘗て如何なる《存在》も背負ひ切り、また、語り課(おほ)せた《もの》は全宇宙史を通して《存在》した例(ため)しがない!
――へっ、それは何故かね?
――神自体が《吾》を《吾》と語り得ぬからさ。
――やはり、自同律の問題に帰すか……。神もまた、この宇宙を創ったはいいが、「私は私である!」と未だ嘗て言い切った例しがないといふ事か――。
――だとすると、《吾》のその底無し具合が《吾》にとって致命的だといふ事が解かるだらう?
――つまり、《吾》は如何あっても特異点をその内部にも外部にも隠し持ってゐる事に帰すのだらう?
――さう、《吾》を敷衍化して《存在》と換言すれば、《存在》はそれが何であれ全ての《存在》が底無しの穴凹若しくは深淵たる特異点を隠し持ってゐるのさ。
――ちぇっ、詰まる所、《存在》は無と無限を無理矢理にでも飼い馴らさなければ、結局、自滅するだけといふ事か――。
――へっへっへっ。大いに結構じゃないか、《吾》が自滅することは。
――それは皮肉かね?
――いいや、本心さ。心の底から《吾》たる《存在》が自滅する事を冀(こひねが)ってゐるのさ。じゃなきゃ、《吾》が《存在》する道理が無いじゃないか?
――《吾》が《存在》する道理? そんな《もの》が元々《存在》するのかね?
――ふっ、いいや、無い。しかし、《吾》はそれが何であれ己の《存在》に意味付けしたくて仕様がないのも厳然とした事実だ。
――それは何故だと思ふ?
――何かの創造の為にさ、ちぇっ。
――何の創造だと思ふ?
――《吾》でない何かさ。
――ふっふっふっ。《吾》は《吾》でない何かを創造するべく此の世に誕生したか……。
――その為に《吾》は十字架の如く底無しの深淵たる特異点といふ大いなる矛盾を背負ひ切らねばならぬのさ。
――やはり、特異点は大いなる矛盾かね?
――現状を是とするならば、特異点は此の世にその大口をばっくりと開けた矛盾に違ひない筈だが、しかし、それを《他》と言ひ換へると面白い事になるぜ。
――特異点が《他》?
――さう。《吾》とは違ふ《もの》故に、つまり、《吾》が矛盾として懊悩せざるを得ぬその淵源に、そして、それを何としても弥縫しなければならぬ《もの》として特異点が在るとするならば、それは《吾》とは違ふ《存在形式》をした《他》だらう?
――つまり、その大いなる矛盾した形式を取らざるを得ぬ特異点といふ《もの》は、それを例へば、《反体》と呼ばうが、《反=吾》と呼ばうが、《新体》と呼ばうが、《未出現》と呼ばうが、とにかく、《吾》は猛獣遣ひの如く《吾》の内部にも外部にも《存在》するその《他》たる特異点を、飼い馴らすか、自滅するか、のどちらかしかないといふことか――。
(三十九の篇終はり)
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp