そもそも《吾》とは厄介な生き物である。耳孔、鼻孔、眼窩、口腔、肛門、生殖器等に代表される《主体》の各々の細胞にすら無数に開いてゐる穴凹と同様、それが《吾》の内部の何処かは解かりかねるが、しかし、《吾》の内部には厳然とその内部の闇にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚(うろ)の穴》が《存在》してゐるとの確信がなければ
――俺は俺だ!
と、《吾》に対しても《他》に対しても《世界》に対しても申し開きが出来ぬ情けない《存在》として《存在》するのである。一方で、蘗の生長によって主幹を喪失しても生き永らへた広葉樹は、けれども、その内部に《存在》してしまふ《虚の穴》は己の何《もの》によっても埋められずに《他》の生き物の生命の揺り籠として樹以外の《もの》をその《虚の穴》で育むといふ、或る意味《吾》の意思ではどうにもならぬ《存在》の在り方を、その樹が望むと望まずとに拘はらず強要されるのであり、また、《存在》の有様の本質がさうである故に、《吾》は《他》や《世界》と辛うじて連関するに違ひないのである。
さうすると、彼の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に不意に現はれる《異形の吾》共は、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《吾》の《虚の穴》をその棲み処としてゐる《他》たる《反=吾》の一つの有様に違ひない筈であるけれども、人間における主幹たる《吾》といふ自意識はといふと絶えざる連続性を求められつつも、絶えず《吾》の主幹たる《吾》の自意識は、それは「先験的」にかもしれぬが、何かによってぽきりと折られ非連続的な《吾》の《存在》を強ひられながら、しかし、人間における《吾》といふ主幹にも《吾》の蘗が生え出るかの如き《インチキ》をそのぽきりと折れた《吾》に接ぎ木するやうにして《吾》といふ《存在》は架空された《吾》として《存在》することを強ひられるのである。尤も、その《インチキ》を身に付けなくては、神ではなく人間の《他人》が作り上げた都市に代表される人工の《世界》では、一時も《存在》することが不可能なのである。それは或る意味当然の事で、慈悲深くも荒々しき神が創りし《世界》では《吾》もまた広葉樹のやうに《吾》の蘗が生え出る事は神に許されてゐて、しかもそれはむしろ《自然》な事なのであるが、しかし、既に人間が作り変へてしまってゐてその《吾》以外の《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り変へてしまった人工の《世界》で生き延びるには、《吾》はその主幹たる《吾》を自ら進んでぽきりと折る勢ひでなければ《存在》は出来ず、挙句の果ては恰も蘗の《吾》が《存在》するかの如く架空の《吾》をでっち上げる、つまり、《吾》といふ《存在》の有様は如何しても《インチキ》だといふ忸怩たる思ひを絶えず噛み締めつつ
――ふっふっふっ。
と、皮肉に満ちた薄笑ひをその蒼白の顔に浮かべなければ、この《他人》が既に《吾》の誕生以前に作り上げた人工の《世界》では《存在》することが許されないのである。さうして、《吾》の内部にぽっかりと開いた《零の穴》若しくは《虚の穴》には数多の《異形の吾》共が棲み付き、そして、絶えずその《吾》を名指して
――馬〜鹿!
と嘲笑してゐるのである。
当然彼にとっても事情は同じで、絶えず彼の内部では《異形の吾》共が皮肉たっぷりに
――馬〜鹿!
と彼を嘲弄するのであった。
――へっ、さうさ、俺は大馬鹿者さ。
と、彼は決まって《異形の吾》共の嘲弄に対してこれまた皮肉たっぷりに返答するのであった。
――土台この浮世、大馬鹿者以外生き残れやしないぜ。
――だからお前は馬〜鹿なのさ、へっ。
――馬鹿で結構。それでも俺は何としても此の世で生き残るぜ。
――ふっふっふっ。
その醜悪極まりない《吾》の鏡像としてしか現はれぬ《異形の吾》の一人はにたりといやらしい薄笑ひをその相貌に浮かべたまま、再び
――馬〜鹿!
と彼を罵るのであった。
――へっ、馬鹿に徹してしかこの異様な浮世では誠実であることは不可能なのさ。
――馬〜鹿!
――どうも有難うごじぇえますだ、俺を馬鹿呼ばわりしてくれて、ふん。
――その大馬鹿者に一つ尋ねるが、お前は、此の異様な《他人》が徹頭徹尾作り上げ神から《世界》を掠奪した人の世に生きることが楽しいかね?
――さあね。楽しくもあり、また、不愉快極まりなくもある。
――それぢゃあ、お前は人間が神の御手から掠奪した此の異様な《世界》を承認するかね?
――いいや、絶対に受け入れられぬ。
――ならば何故に生き残るなどと嘯くのかね?
――逃げられないからさ。
――逃げられない?
――ああ、此の世に《存在》しちまった《もの》はその《世界》から遁れられぬし、また、此の世から遁れる出口なんぞは何処にもありゃしないのさ。それはつまりこの人工の《世界》では自死することすら全く無意味な行為でしかなく、《吾》が自死しようがこの人工の《世界》は「また《吾》が自死したぜ! 全く《吾》とは間抜けな《存在》だぜ」と腹を抱へて哄笑するのが落ちさ。つまり、この人工の《世界》では如何足掻かうが「出口無し!」と相場が決まってしまってゐるのさ。
――では《愛》は何なのか?
――《吾》が《吾》として架空されてゐることを確認する一行為に過ぎぬのさ、この人工の《世界》では!
(二の篇終はり)
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