――ああ、その通りさ。しかし、《存在》は無若しくは無限をも掌中に収める特異点を内包してゐなければ《存在》自体が成立しない。
――つまり、《パスカルの深淵》は外部にも内部にもあるといふことか……。《主体》にとってそれは過酷だね。
――何を他人事のやうに? 君も《自意識》を持つ《存在》たる《主体》ならば、この地獄の如き底無しの《深淵》は知ってゐる筈だし、現に君はその底無しの《深淵》に飛び込んでゐるじゃないか?
――私の場合は強ひて言へば、最早《存在》といふ《もの》が綱渡りの如くにしか《存在》出来ない《主体》において、私といふこの《主体》が、その《存在》の綱を踏み外してしまって、結果的にこの《深淵》に落っこっちまったに過ぎぬのさ。今の世、《主体》が《主体》であり続けるのはCircus(サーカス)の曲芸よりも至難の業だぜ。
――君はそんな《主体》の有様に疑念を抱かなかったのかい?
――疑念で済んでゐれば《存在》の綱を踏み外してこんな《深淵》に落っこちっこなかった筈さ。
――自虐、それも徹底した自虐の末路がこの《深淵》といふことかね?
――いいや、私の場合は唯《杳体》に魅せられて《杳体》の虜になっただけのことさ。つまり、《杳体》の面が見たかったのさ。
――《杳体》の面?
――《存在》の綱渡りをしてゐる最中に《杳体》なる《もの》の幻影を見てしまったのさ。
――それが《存在》の陥穽、つまり、特異点と知りながらかい?
――ああ、勿論だとも。端的に言へば《存在》することに魔がさしたのさ。《主体》であることが馬鹿らしくなってね。其処へ《杳体》の魔の囁きが不図聞こえてしまったのさ。
――どんな囁きだったんだい?
――「無限が待ってゐるよ」とね。さう囁かれると《主体》はどう仕様もない。一見すると有限にしか思へない《主体》は《無限》に平伏する。《無限》を前にすると最早《主体》は抗へない。つまり、《主体》内部の特異点が《無限》と呼応してしまふのさ。
――ふむ。ところで君は《杳体》がのっぺらぼうだとは思はなかったのかい?
――のっぺらぼうの筈がないじゃないか!
――何故さう断言出来るのかね?
――つまり、《主体》にすら面があるからさ。そして《他者》にも面がある。更に言へば、此の世の森羅万象全てに面がある。
――だから《杳体》にも面があると?
――一つ尋ねるが、闇に面があるかね?
――ふむ。闇といふ言葉が《存在》する以上、面はあるに違ひない。
――へっ、さうさ。その通り。だから《杳体》も《杳体》と名指した刹那に面が生じるのさ。
――すると、のっぺらぼうものっぺらぼうと名指した刹那にのっぺらぼうといふ面が生じるのかい?
――へっ、のっぺらぼうとは無限相の別称さ。
――無限相?
――無限に相貌を持つといふことは面貌の無いのっぺらぼうに等しい――。
――それぢゃ、無と無限がごちゃ混ぜだぜ。
――逆に尋ねるが、無と無限の違ひは何かね?
――ふっ、それは愚問だよ。
――さうかね? 愚問かね。それぢゃ、端的に言ふが、無と無限の違ひはその位相の違ひに過ぎない。
――詰まる所、それは特異点の問題か……。
――無と無限が此の世に《存在》するならば――この言ひ方は変だがね――特異点も必ず《存在》する。それをのっぺらぼうと名付けたところで、無から無限までの∞の相貌がのっぺらぼうの面には《存在》してしまふのさ。
(七 終はり)
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