――つまり、死んだ《もの》が《吾》の死後に《吾》が棲む《世界》を決めるのさ。それも《死》した《もの》は最早過ぎ去ってしまった《吾》の《生》のみを頼りにして其処を極楽浄土か地獄かを絶対的に主観的に判断しなければならぬといふ皮肉! 例へば死んだ《もの》が彼の世を地獄と判断すれは其処は地獄以外の何《もの》でもない。へっ、地獄も住めば都だがね。換言すれば極楽浄土と地獄は同位相にある、へっ、もしかすると同じ《世界》を、或る《もの》は極楽浄土と看做し、或る《もの》は其処を地獄と看做すに過ぎぬのかもしれないといふことさ。
――すると、極楽浄土と地獄が同じく絶対的に《主観》の世界像ならば、閻魔大王も最後の審判も全て一人芝居に過ぎぬぢゃないかね?
――さうさ。《吾》を最終的に裁けるのは、結局、《吾》のみさ。さうして、《死》した《もの》は全て《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ。
――如何あっても《死》した《もの》はそれが何であれ《零の穴》若しくは《∞の穴》を覗き込まなければならぬ定めなのかね?
――ああ、残念ながらね。
――それは何故かね?
――《死》は徹頭徹尾独りの《もの》だからさ。此の世の様態たる実数若しくは複素数の実数部の世界から出立した死んだ《もの》は、或る意味量子論的に《零の穴》と《∞の穴》の二つの様態の両様にあり、死んだ《もの》が《零の穴》を覗き込んでゐるか、または《∞の穴》を覗き込んでゐるかは、《死》した《もの》の絶対的な《主観》に属する、つまり、《死》した《もの》の絶対的に主観的な様態次第といふことだ。つまり、虚数を嘗ては実数であった《吾》がその死後如何看做すかが《死》の位相であらゆる《もの》は試される。
――へっ、つまり、《死》とは零と∞の状態が《重なり合った》、へっ、零と∞が如何《重なり合ふ》のか甚だ疑問だがね、しかし、《死》とは無理矢理にでも零と∞が《重なり合ふ》状態のことだね?
――さう看做して結構だ。しかし、その零と∞が《重なり合ふ》状態が《吾》の《生》次第で如何様にも変容することは理解できるね?
――つまり、《生》次第で《死》の様態は如何にでもなるといふことだね。そして、《死》は絶対的に主観的な世界像としてとしか《死》した《吾》にはその像を結ばぬといふことだらう?
――さう。そして、《死》の萌芽は既に《生》に潜んでゐる。
――それは当然だらう。複素数には零も∞も含まれるんだからな。
――それに加へて特異点も複素数は内包せねばならぬ定めなのさ。
――それも定めなのかね、此の世の様態たる複素数が特異点を内包せねばならぬといふことは?
――ああ。先にも言ったやうに矛盾を孕んでゐない論理は論理の《死体》でしかないやうに、此の世の様態たる複素数は、零や∞は勿論の事、其処には何としても、ちぇっ、つまり、痩せ我慢してでも特異点を内包しなければ、そもそも《存在》は《存在》出来ない定めなのさ。
その刹那、《そいつ》はぎろりと鋭き光を放つ眼光を蔽ひ隠すやうにゆっくりと瞼を閉ぢたのであった。
――何を考へてゐる?
――へっ、何ね、死ねない癌細胞、即ち全的に《生》に移行しちまった細胞の出現こそその数多の細胞群の統一体たる《吾》の《死》の始まりでしかないこの矛盾に満ちた《生》の有様の不思議を不意に思っただけの事さ。
――死ねない癌細胞の出現は、詰まる所、自死、即ちApoptosis(アポトーシス)によって辛うじてその複雑怪奇な構造を為す臓器等を統一体たらしめてゐたその絆をぶった切ることでしかないといふ何たる皮肉!
――へっ、元来《他》の死肉を喰らふことで辛うじて《吾》の《生》を維持してゐることを考へれば、《生》は《死》無くしては成立しない事は火を見るよりも明らかだ。しかしだ、《死》すべき宿命から遁れられぬ《吾》の一部には未来永劫に亙ってこの《吾》が《吾》として《存在》することを望んで已まない《もの》が《存在》する。その夢想の具体化された《もの》の一例が癌細胞の出現だとすれば、ちぇっ、しかし、《吾》にとっては全く制御不能な癌細胞は、換言すれば、不老不死を望んで已まない《吾》が《吾》の意思とは全く無関係に《存在》してしまふ癌細胞の有様は、さて、何と説明すればいいのかね?
その刹那、《そいつ》は再び鋭き眼光を放つ目を開け、私をぎろりと睨み付けたのであった。
――ちえっ、《吾》の《存在》が未来永劫に亙って続くことを望んで已まない《吾》は、地獄にのみ棲みたいのさ。そんな《吾》なぞ好きにやらせて、放って置けばいいのさ。しかしだ。例へばだが、ちぇっ、唐突且縮めて言っちまへば、ふっ、これは飛躍的な物言ひだがね、《他》と交り合ふ性交と《死》は切っても切れない関係にある不思議が、特異点の不思議を解く鍵に違ひないとは思はないかい?
――何を藪から棒に? まあよい。へっ、さうすると《死》もまた性交と同じく悦楽の部類に入るのかね?
――ああ。多分ね。生物史を見ると生の出現が《死》の出現と重なってゐることからして性交が悦楽ならば《死》もまた悦楽に違ひない、へっ、それは《生》にとっては忌み嫌ふ外ない「禁じられし」悦楽だがね。つまり、性交の悦楽が《死》の疑似体験の更に疑似体験の触りに過ぎぬとしたならば、性交時に仮初にもそこに架空される《吾》=《吾》=《他》といふ等式は、正に自同律が悦楽となり得る事象を暗示してゐるのであり、またその等式は《他》の死肉を喰らひ《他》の死肉を消化しちまふといふ食事といふ行為にも当て嵌まり、更には夢を絶対的に主観的な世界と仮定しちまへば睡眠時もまたその等式が成り立つ筈さ。なあ、その性交の悦楽は此の世に底知れぬ特異点の《存在》を暗示させる《もの》だと思はないかい?
――何故性交時の若しくは食事時の若しくは睡眠時の悦楽が一気に特異点の《存在》の暗示に飛躍してしまふのかね?
――へっ、性交において若しくは食事において若しくは睡眠時の夢において自同律も因果律も破壊、即ち自同律と因果律が自死してゐる故に《吾》は悦楽に浸れる。さうは思はないかね?
――つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ等式が成り立つには因果律が壊れてゐるに違ひない特異点の世界の《存在》を如何しても暗示して已まないと?
――違ふかね?
(七の篇終はり)
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