――ふっふっふっ。お前は先に全宇宙史を背負って俺に対して此の世に立つ覚悟はあるかと聞いたかと思へば、そんな《もの》は神に呉れちまへばいいと言ひ、そして、言ふに事欠いてか挙句の果てに「苦悩による苦悩の封建制」と言ひ出し、其処で《苦悩》は全て《主体》たる《吾》が背負ひ、ふっ、神若しくは神々を《存在》から解放せよと言ったが、ちぇっ、つまり、お前の言ふ事は支離滅裂ぢゃないかね? ふっふっふっ。
――さうさ、支離滅裂だ。ふっ、つまり、俺には未だ此の宇宙の全宇宙史を背負って此の世に立つ覚悟が出来ていないのさ。へっ、愚劣故にな。例へば存在論的に言へばだが、イエス・キリストの如くその《存在》を磔刑に処する覚悟が出来ていないのさ。
――それは当然だらう。神若しくは神々でさへ全宇宙史における《苦悩》を背負ひ切れずに四苦八苦した挙句に、神若しくは神々はその《苦悩》を時の移ろひに抛り投げてしまったのだから、況や、神若しくは神々に遠く及ばぬであらう《主体》たる《吾》に全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》など背負へる訳がない。
――しかし、《主体》たる《吾》は、ぷふぃ、この愚劣極まりない《主体》たる《吾》は、その己の愚劣さをくっと噛み締めて、此の宇宙の全宇宙史における全《存在》の全《苦悩》を、へっ、痩せ我慢に痩せ我慢ををしてでもその全《苦悩》を背負ふしかないんだらう?
――ぷふぃ、その通りさ。神若しくは神々のこれまでの行なひに報ひ、全《存在》から神若しくは神々を解放したければ、《主体》たる《吾》は進んで全《存在》の全《苦悩》を背負ひ、さうしてそのままじっと我慢の上にも我慢を重ねて「苦悩による苦悩の封建制」にその身を委ねるしかないのさ。
――しかし、それは《主体》たる《吾》の自己満足に過ぎぬのぢゃないのかね?
――ぷふぃ。自己満足で結構ぢゃないか。神若しくは神々を全《存在》から解き放つ為にも、《主体》たる《吾》は新たな創世記をでっち上げればいいのさ。
――新たな創世記をでっち上げる?
――さうさ。徹頭徹尾《主体》たる《吾》が、全《苦悩》を背負って立つ外ない、《主体》の、《主体》による、《主体》の為の創世記をでっち上げる以外に、神若しくは神々も強ひて言へば《主体》たる《吾》も《自在なる存在》に至る術はないのさ。
――《自在なる存在》?
――さう、《自在なる存在》だ。
――しかし、《主体》たる《吾》は此の宇宙の全《苦悩》を痩せ我慢に痩せ我慢をしてでも背負ふ「不自由」な《存在》ぢゃないのかね?
――だから如何したと言ふんだい? 此の宇宙の全《苦悩》を背負ふ事が即「不自由」だとは限らないぜ。
――其処で「苦悩による苦悩の封建制」かね? それの何処が《自在なる存在》に繋がるのかね?
――へっ、実際のところ、無限を飛び越える如くに「苦悩による苦悩の封建制」は《自在なる存在》と結び付く可能性は限りなく零に近いが、しかし、最早《主体》たる《吾》はそれを成し遂げる外ないんだぜ。ふっ、曲芸師の如くにな。
――つまり、「苦悩による苦悩の封建制」では、へっ、《主体》たる《吾》は《自在なる存在》といふ名の《地獄》を見る……か――。
――しかし、それは神若しくは神々の《自由》と《主体》たる《吾》の、ぷふぃ、《自由》の当然の対価だらう?
――《自由》の対価?
――へっ、【神若しくは神々の《自由》】≠【《主体》たる《吾》の《自由》】のその悍ましさの底無しの深淵を《主体》たる《吾》は「苦悩による苦悩の封建制」において覗き込まねばならぬのだ。その覚悟は出来たかね?
――ちぇっ、当たって砕けろだ。
――それ、その意気。
――ちぇっ、これは愚問だが、《主体》たる《吾》は何故に逆Pyramid(ピラミッド)型の階級制、つまり、逆Pyramidの底にゐるであらう《主体》たる《吾》は、その逆Pyramid型の階級制をした故に《主体》たる《吾》のみが全《苦悩》を背負ふといふ、神若しくは神々以外では全宇宙史上初めてに違ひない「苦悩による苦悩の封建制」を受け入れるといふ、そんなとんでもない愚行に身を投じる必然性はあるのかね?
――ぷふぃ。此の世に《存在》しちまった以上、《主体》たる《吾》はそれを黙って受け入れる外ないのさ。
――《存在》しちまったが故? たったそれだけの理由でか?
――ああ、さうさ。此の世に《存在》しちまったのだから仕様がないのさ。
――仕様がない……か――。
――ぷふぃ。此の悪意に満ちた宇宙を震へ上がらせたいんだらう?
――ああ……。
――ならば、腹を括るのだな。「苦悩による苦悩の封建制」は《存在》に「先験的」に与へられる《もの》に属すると。
――つまり、出口無しか。
――いや、出口はお前が「苦悩による苦悩の封建制」たる創世記を何としてもでっち上げれば開ける筈さ。
――へっ、それは如何あっても創世記でなければ駄目かね?
――勿論。その創世記をでっち上げるといふ事には、神若しくは神々の《存在》からの解放と、《主体》たる《吾》の《自由》の獲得の二重の意味が隠されてゐるんだからな。
(四十五の篇終はり)
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