――この野郎!
と、さう頭蓋内で叫んでゐた私は、不意に全身に電気が走ったかの如くに肉体に力が漲り、その肉体を意識下に従へることに成功したその刹那、あっと思ふ間もなく反射的に私は私をせせら笑ってゐたその夢魔に対して殴り掛かってゐたのであった。が、果たせる哉、私の拳は虚しく空を切り蒲団が敷かれた畳を思ひ切り殴るへまをやらかしたのみであったのである。当然の事、私を嘲弄してゐた夢魔はびくりともせずに相変はらず私の眼前に、つまり、私の閉ぢられし瞼裡にゐたのであった。
一方で私はといへば、私が夢魔ではなく畳を殴ってゐた事を明瞭に認識してはゐたが、しかし、そのまま覚醒することはなく、眼前の夢魔に目を据ゑては夢魔の嘲笑に怒り心頭なのであった。
この夢魔は時折私の夢に現はれる――もしかするとそれとは反対に私が夢魔の世界へ夢を通して訪れてゐるのかもしれぬが――のであった。また、この夢魔は何時も能面の翁の面(おもて)をしてゐて、朱色の大きな大きな大きな落陽を背に引き連れて、それでゐて夢魔の面は逆光では決してなく、煌々とした輝きを放って、その面にいやらしい微笑を浮かべては決まって私を罵るのであった。
――そら、お前の素性を述べてみよ。
――くっ――。俺は俺だ!
――へっ、俺は俺? それはお前だけが思ってゐるに過ぎぬのじゃないかね? ほら、お前の素姓を述べ給へ。
――くそっ。俺が俺であることを俺のみが思ってゐたとしても、それの何処がいけないのか!
――馬鹿が――。お前は《他》がお前を承認しない限りは、お前はお前未然の下らない《存在》に過ぎぬのぢゃ。そら、お前の素姓を述べてみよ。
――くっ――。
――口惜しいか? ならば早くお前の素姓を述べてみよ。
――くそっ。
――ふほっほっほっほっ、所詮、お前にお前自身の素姓を語れる言の葉は無いのさ。それ、お前の素姓を「俺」の類の言葉無しにお前について述べてみろ。
――《他》以外の《もの》が己ぢゃないのか?
――ふほっほっほっほっ。馬鹿が! 《他》もまた《吾》なり。お前の頭蓋内の闇、即ち五蘊場に《他》たる世界は表象されないのかね?
――《他》は《他》として自存した《もの》ではないのか!
――否! 《他》は《吾》あっての《他》だ。
――否! 《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》する!
――ほほう。しかし、《吾》は《他》たる世界をその内部に、つまり、五蘊場に取り込まなければ、即ち世界認識しなければ《存在》すら出来ない。これを如何とする?
――ぬぬ。
――所詮、《吾》など世界に身の丈を弁へてきちんと《存在》する塵芥にも劣る《存在》に過ぎぬのぢゃないかね? ふほっほっほっほっ。
――ちぇっ、結局は《他》たる世界は《吾》無くしても《存在》するか――。
――それはお前がさう言ったに過ぎないのぢゃないかね?
――さうさ。《他》たる世界において《吾》は芥子粒にも劣る厄介者でしかない!
――ふほっほっほっ。その自己卑下して自己陶酔する《吾》の悪癖は如何にかならないかね?
――悪癖?
――さうだ。《吾》の悪癖だ。自己卑下して万事巧く行くなどと考へること自体傲慢だよ。
――しかし、《吾》は《吾》の《存在》なんぞにお構ひなしに自存してしまふ世界=内に《存在》せざるを得ぬ以上、《吾》は自己卑下するやうに仕組まれ、若しくは「先験的」にさう創られてゐるのぢゃないかね?
――ふほっほっほっほっ。では、《吾》は何故《存在》するのかね?
――解からない……。
――解からない? それは余りに《存在》に対して無責任だらう?
――ちぇっ、この野郎!
と、私は再び夢魔に殴り掛かったのであったが、果たせる哉、これまた私の拳は空を切り畳を殴っただけに過ぎなかったのである。
――ふほっほっほっほっ。お前に虚空は殴れないよ。
――虚空だと?
――さう、虚空だ。お前の内部にも《存在》する《他》たる虚空に私はゐるのぢゃ。そしてその虚空は全てお前が創り上げた《他》たる内界と言ふ若しくは外界といふ世界の一位相に過ぎぬのぢゃ。
――お前はその虚空の主か?
――ふほっほっほっほっ。さうだとしたならお前は如何する?
(一の篇終はり)
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