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思索に耽る苦行の軌跡
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思索(98)
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2009/03/14 06:09:08 プライベート♪
思索
嗤(わら)ふ吾 二
 さて、闇の《吾》とは一体何であるのか改めて考へてみると、それは誠に奇妙な《吾》としか形容できない全くの無様な《吾》なのである。例へば私が私の事を《吾》と名指してゐる以上、それは何かしらの表象上の《面(おもて)》を持った何かに違ひないのであるが、しかし、私の意識の深層のところ、つまり、無意識のところでは《吾》は《面》のない闇でしかないといふことなのかもしれなかったのである。問題はそのことをこの私が持ち堪へられるかといふことなのかもしれなかったが、《闇の吾》の夢を見て嗤ってゐる処を見ると、《吾》が闇でしかないことを私は一応納得し、而も《闇の吾》を楽しんでゐるのは間違ひのないことであった。


 其処で一つの疑念が湧いて来るのである。


――夢の中での《吾》とは一体何であるのか? 


 更に言へばそもそも夢は私の頭蓋内の闇で自己完結してゐるものなのであらうか、それとも夢見の私は外界にも開かれた、つまり、この宇宙の一部として《他》と繋がった《吾》として夢といふ世界を表象してゐるのであらうか。仮に夢が私を容れる世界といふ器として表象されてゐるのであるならば夢もまた世界である以上、《他》たる外部と繋がった何かに違ひないと考へるのが妥当である。換言すると、夢見中の私は無意識裡に《他者》、若しくは《他》と感応し、若しくは共鳴し、更に言へば《他者》の見てゐる夢の世界を共有し、若しくは《他者》の見てゐる夢に私が出現し、もしかすると《他者》の夢を私も見てゐるのではないかといふ疑念が湧いて来るのである。つまり、夢を見てゐるのが私である保証は何処にも無いのである。


――これは異なことを言ふ! 


といふ反論が私の胸奥に即座に湧き出るのであるが、しかし、よくよく考へてみると、夢が私のものである保証は何処にも無い、つまり、夢といふ《他》との共有の場に私が夢見自訪ねると考へられなくもないのである。


 ここで知ったかぶりをしてユングの集合的無意識や元型など持ち出さないが、しかし、それにしても私が夢の事を思ふ時必ず私は「夢を《他》から間借りしてゐる」といふ感覚に捉はれるのは如何したことであらうか。この感覚は既に幼少時に感じてゐたものであるが、私が夢を見るときに何時も朧に感じてゐるのは《他》の夢に御邪魔してゐるといふ感覚なのである。この感覚は如何ともし難く、私に夢への全的な没入を何時も躊躇はせる原因なのだが、私は夢を見てゐる私を必ず朧に認識してゐて、「あ、これは夢だな」と知りつつ或る意味第三者的に私は夢を見てゐるのであった。


――ちぇっ、また夢だぜ。


 かう呟く私が夢見時に必ず存在するのである。これは夢を見るものにとっては興醒め以外の何ものでもなく、現実では因果律に縛られて一次元の紐の如く束縛され捩じり巻かれてゐた時間がその紐の捩じりを解かれ、あらゆる事象が同位相に置かれたかのやうに同時多発的に出来事が発生する、或る種時間が一次元から解放された奇妙奇天烈な世界が展開する夢において、所謂《対自》の《吾》が私の頭蓋内に存在することは、最早夢が夢であることを自ら断念することを意味し、其処では深々と呼吸をしながら深々と夢に耽溺する深い眠りの中で無意識なる《吾》が出現する筈の夢世界は、夢ならではの変幻自在さを喪失してをり、その当然の帰結として、私の眠りは総じて浅いのが常であった。つまり、私の夢は因果律からちっとも解放されずに、それは多分に覚醒時の表象作用に似たものに違ひないのである。


 さて、其処で《闇の夢》である。私は《闇の夢》を見てゐる時、稀ではあるが深い深い眠りに陥る時がある。それはこんな風なのである。何時もの様に私は夢を見てゐる私を朧に認識しながら、私は一息深々と息を吸い込むと徐に闇の中へと投身するのである。それ以降は《対自》の《吾》は抹消され、私は意識を失ったかの如く《闇の夢》の中に埋没するのであった。最早さうなると何かを表象してゐる夢ならではの正に夢を見てゐるかどうかは不明瞭となり、《闇の夢》の中では無意識なる《吾》が夢世界に巻き込まれながら、因果律の束縛から解かれた、所謂《特異点》の世界の《亜種》を疑似体験してゐる筈なのである。


 夢は因果律の成立しない世界が存在する、つまり、《特異点》の世界が存在することを何となく示唆するもので、私の場合それは《闇の夢》なのであった。例へば、《存在》は絶えず変容することを世界に強要され、世界もまた変容することを《物自体》に強要されてゐると仮定すると、《存在》は夢を見るように《物自体》に仕組まれてゐると看做せなくもないのである。つまり、《存在》する《もの》全ては夢を見、換言すれば《存在》はその内部に因果律が成立しない《特異点》を隠し持ってゐると仮定できなくもない、更に言へば、《存在》は《特異点》を必ず持ってゐると看做すことが自然なことに思へなくもないのである。


(二の篇終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp
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2009/03/09 07:14:30 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 廿三
――ふっふっ、《主体内部》では相変はらず《実体》と《反体》が対消滅を繰り返し、絶えず《魂》たるSolitonの如き未知の孤立波を発し続けるか――。


――つまり、《特異点》は湮滅出来ぬのさ。


――しかし、剥き出しの《特異点》に果たして《主体》が対峙出来るかね? 


――別に対峙する必要なんかこれっぽっちもない。《特異点》の《深淵》にもんどりうって飛び込んじまふがいいのさ。


――ちぇっ、また堂々巡りだ! 


 彼の闇の視界に浮き上がった内発する淡き淡き淡き光の帳は、その刹那、二つに分裂し、淡き淡き淡き光の塊となって彼の視界の中をゆっくりと反時計回りに旋回し始めたのであった。


――一つ尋ねるが、《吾》を断罪する《吾》とは何なのかね? 


――へっ、さう来たか――。《吾》を断罪する《吾》とは《私未然》の《吾》になれざる死屍累々の《吾》共だ。


――つまり、《吾》が《存在》してしまったが為にその《存在》することを許されぬ未出現の《もの》達か――。


――《存在》することがそもそも殺生の上にしか成り立たない。《生》と《死》が表裏一体の如く《存在》もまた《殺戮》と表裏一体なのさ。ならば《存在》は自ら己を断罪せずしてぬくぬくと《存在》することが可能だと思ふかい? 俺には如何してもさうは思へぬのだ。《存在》は自らを自らの手を汚して断罪してこそその生きる活路がやっと見出せる筈だ。また《存在》はそれが何であれさうするやうに元来仕組まれて《存在》たることを許されてゐるのさ。


――辛うじてだらう? 辛うじて《存在》は《存在》たることを許されてゐる……。


――へっ、何に許されてゐると思ふ? 


――神か? 


――神でなければ? 


――無と無限を呑み込んだ虚無か? 


――端的に言っちまへよ。


――《死》さ。つまり、《存在》は《存在》たることを断罪することで辛うじて《死》から許される――。


――ふっ、《死》もまた《夢》を見ると思ふかい? 


――何の為に? 


――《死》が《死》ならざる何かへ変容する為にさ。


――《死》もまた《存在》の一位相に過ぎぬと? 


――《死》は厳然と此の世に《存在》する! 《生》は《他》の《死》を喰らって《生》たることを維持してゐる故に《生》は必ず《死》を内包してゐる。


――へっ、《死》もまた《特異点》だと? 


――違ふかね? 


――ふっふっふっ。多分《死》もまた《特異点》なのだらう。ところで《特異点》は《存在》の塵箱(ごみばこ)なのかい? 


――或ひはさうかもしれぬが、ひと度自同律と因果律に疑念を抱いてしまった《吾》なる《存在》は、その《存在》の塵箱たる《特異点》に飛び込まざるを得ない。


――其処で《死》をも喰らふ? 


――喰らはずにゐられると思ふかい? その証左が自分の《死》を《夢》ではみたことがあるだらう? 


――ああ。それが《夢》だと夢見でありながらも確実に認識してゐるのだが、自分の《死》を《夢》で見るのは余り気持のいいものじゃない。


――へっへっ、それさ。《存在》が《夢》を見るといふことが《存在内部》に《特異点》が隠されてゐる一つの歴然とした証左だ。


――成程、《夢》では大概因果律が壊れてゐるな。しかし、《夢》を見てゐるのは何があらうとも自分である、つまり、《夢》においてこそ自同律は快楽の境地に達してゐる、違ふかね? 


(廿三の篇終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009/03/07 08:39:27 プライベート♪
思索
蟻地獄 三
 その日から私の闇に包まれた漆黒の頭蓋内にも、今もその陥穽たる罠に引っ掛かり落っこちる、さながら蟻と化した《異形の吾》をじっと待つ蟻地獄が巣食ってゐるのである。その蟻地獄はその姿を決して私の頭蓋内に現はすことはないのであったが、隙あらば《吾》自体を喰らふべく、その畏怖すべき気配ばかりを強烈に漂はせながら闇黒の私の頭蓋内に身を潜ませてゐたのであった。


 ところで、その日、すっかり蟻地獄の虜になってしまった幼少の私は、興奮が収まらぬまま布団に潜り込み、電燈が消された闇の子供部屋の中、じっと闇を見据ゑてその日の出来事の一部始終を反芻してゐた筈である。而して幼少の私の頭蓋内の闇には唯一つの疑問が蝋燭の炎の如く灯ってゐたに違ひないのである。


――何故蟻地獄は餓死を覚悟した上であんな小さな小さな小さな擂鉢状の罠に自身の生存の全てを委ねてしまったのであらうか? 


 幼少の私にとってその疑問は疑問として無理からぬのであったが、しかし、その答えは意外と簡単なのである。蟻地獄が蟻を追って蟻を捕獲する道を選んだとすると、それは蟻地獄にとっては最も確実至極な自殺行為に外ならないといふことなのである。蟻程恐ろしい昆虫は此の世に存在しないのである。蟻にかかれば此の世の森羅万象が蟻の餌になってしまふ程に蟻の団体としての力は凄まじいのである。


 蟻の巣の出入り口を一日眺めてみれば、蟻が生きとし生けるもの何でも餌にして、自身一匹では到底歯が立たぬ相手も数の力で圧倒し餌にしてしまふその凶暴振りに感嘆する筈である。その蟻を主食として選んだ業として蟻地獄はその身を地中に潜ませ、単体としての蟻を捕まへる外に蟻を餌とするのは不可能なのである。その餌を追ふことを《断念》し、此の世の《最強》の生き物たる蟻を餌にしてしまふその図太さの上に餓死をも厭はぬ餓鬼道をその存在の場にした蟻地獄のその徹底した《他力本願》ぶりは、私に一つの《正覚者》の具現した例証を齎すのであったが、しかし、その此の世の《最強》の《正覚者》が此の世に隠微にしか存在しないその有様は、何か《存在》そのものの在り方、若しくは《物自体》の有様を暗示してゐるやうに思へなくもなかったのである。爾来、私の頭蓋内の闇には前述したやうに私自体を喰らはうとその身を闇に潜めてゐる蟻地獄が巣食ふことになったのであった。


 それにしても蟻地獄が餓鬼道に生きるのは蟻を餌にしたことに対する因業にしか思へぬのは何故なのであらうか? そして、蟻の存在が蟻地獄を此の世に出現させた因に外ならないやうな気がしてならないのは何故なのであらうか? つまり、此の世の摂理とは、それを因果応報と呼ぶとすると、《存在》には必ず《存在》を餌にする蟻地獄の如き《地獄》がその陥穽の大口をばっくりと開けて秘かに《存在》が堕ちるのを待ち構へてゐるに違ひないのである。


 《存在》が一寸でもよろめいた瞬間、《存在》は蟻地獄の如き底無しのその奈落へ堕ちて、《神》に喰はれるか、或ひは《鬼》に喰はれるか、或ひは《魔王》に喰はれるか、将又(はたまた)永劫にその奈落に堕ち続けるかするに違ひないのである。それをパスカルは《深淵》と呼んだが、此の世に《存在》してしまったものは何であれ《吾》を強烈な自己愛の裏返しで憎悪し、《吾》以外の《何か》へ変容することを絶えず強要されながら、しかも、《存在》の周辺には底無しの《深淵》が犇めいてゐる《娑婆》を生きる外ないのである。其処で


――それでは何故《存在》が《存在》するのか? 


といふ愚問を発してみるのであるが、返って来るのは無言ばかりである。そしてこの無言なる《もの》が曲者なのである。ドストエフスキイは、この無言なる《もの》が全てを許してゐると仮定して《主体》なる《存在》のその悍(おぞ)ましさを巨大作群に結実させてゐるが、さて、その無言なる《もの》を例へば《神》と名指してみると、《存在》はその因果応報の円環から遁れる術をドストエフスキイ以上に人類に提示した人間がゐるかと問ふてみるのであるが、答へは未だに「否」としか答へられない憾みばかりが残るのである。それ故に先の愚問に対する答へは自身で発するしかないのであるが、私の場合、今もって何も答へられず、唯、私の頭蓋内の闇の中に《吾》を、つまり、《異形の吾》を喰らふ蟻地獄を潜ませるのがやっとなのである。


(三の篇終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009/03/02 06:08:00 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 廿二
――その為に《主体》は出来得る限りの手練手管を駆使して無と無限が《主体》内部で暴れ出すのを何としても防がなければならないといふ訳かね? 


――いや、無と無限が暴れ出しても別に構はないさ、無と無限に《存在》が呑み込まれなければね。


――ふっふっふっ、この皮肉屋めが――。それは《主体》が《主体》であり続けることが前提の話であって、その実、《主体》が《新体》に相転移するには如何あっても《主体》が無と無限に呑み込まれなければならぬのじゃないかね? 


――無と無限に呑み込まれて《主体》が《新体》に相転移するだと? ぶはっはっはっはっ。如何足掻いても《主体》が《新体》に相転移などせぬよ。無と無限に呑み込まれたぐらゐで《主体》が《新体》に変容出来るのであればとっくの昔に《主体》はさうしてゐる筈さ。しかし、実際はさうなってはゐない。それが何を意味してゐるかは解かるよね? 


――つまり、《主体》は《主体》であることを《断念》することしか《新体》への道は拓かれないと? 


――《主体》自らその極悪非道ぶりを自らの手で断罪した《主体》がこれまで存在したかね? 


――自殺したものは違ふかね? 


――へっ、自殺は《主体》が《私》として未来永劫地獄の中で存続する為の自己愛の一表現に、換言すれば、自殺は端から《主体》を断罪することを已めてしまった《主体》の哀れな自己愛の一表現に過ぎぬ。違ふかね? 


――《死》は裁きにはならぬと? 


――自殺は卑怯者が取る最も安易な、そして愚劣極まりない行為さ。へっ、これまで誰か自殺して《主体》が《新体》に変容した例があるかね? 


――それじゃあ、イエスや釈迦牟尼やその他の宗教の開祖達は違ふかね? 


――ふっふっふっ、或ひはさうかもしれぬが、しかし、彼等に《主体》全ての極悪非道を背負はせるのかね? 


――…………。


――それは無責任だらう。


――しかし、《主体》自ら《主体》を断罪したところでそれは茶番劇にしかならないのじゃないかね? 


――しかし、しないよりもした方が未だましだらう。何せ《存在》は《他》の殺生の上にしかあり得ぬのだからな。


――へっへっ、《主体》自ら《主体》を血祭りに上げたとして、それは《主体》にとって痛くも痒くもない筈さ。


――当然だらう。


――当然? 


――一《主体》を《主体》が断罪し葬り去ったとしても次なる《異形の吾》がそれに取って代はるだけさ。


――ならば何故《主体》は《主体》自らの手で《主体》自体を断罪せよと? 


――《主体》が《主体》自らの手で宇宙にとっては思いもかけぬ《自己弾劾》をこの宇宙の内部で《主体》が自ら進んですることで《存在》を《存在》させるこの悪意に満ちた宇宙をちらっとでも震撼させたいが為さ。


――それじゃ、《主体》の意趣返しでしかないではないか? 


――へっへっへっ、意趣返しで結構じゃないか、この宇宙が一瞬でも震へ上がるのであれば――。


――ちぇっ、詰まる所、お前は《主体》が宇宙に意趣返しをすることで、その実、この宇宙とは別の更に相転移した《新宇宙》の出現を促し、その結果として図らずも《主体》が《新体》に変態するといふ馬鹿げたことを目論んでゐるのかね? 


――《主体》が《新体》へと変態するかどうかは解からぬが、唯、《主体》が《主体》を弾劾し始めることでこの宇宙をちょっとは震へ上がらせ、その上《存在》をも揺すってみることは出来る筈さ。


――それで《主体》は満足か? 


――いや。《主体》は《存在》が《存在》する限り満足することはあり得ぬ。


(廿二の篇終はり)



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2009/02/28 05:32:11 プライベート♪
思索
黙劇「杳体なるもの」 三
――へっ、地獄の一丁目へ直行か! 吾は地獄と浄土の間を揺れ動く。さうじゃないかい? 


――ご名答! 


――それで死の世界にも特異点はあるのか? 


――穴凹だらけさ、多分ね。つまり、《存在》の数だけ死の世界には特異点の穴が開いてゐるに違ひない。さうじゃなかったならば《死滅》の存在理由がなくなってしまふじゃないか! 


――つまりは《存在》が《存在》するから死の世界も穴凹だらけなのだらう? 


――否、《杳体》さ。


――《存在》も《杳体》の一位相に過ぎないってことか……。


――森羅万象、諸行無常、有為転変、万物流転、生々滅々、輪廻転生など、それを何と表現しても構はないが、それらは全て《杳体》の一位相に過ぎない。ひと度《杳体》と《重なり合ふ》と、此岸と彼岸の全位相と対峙しなければならぬのだ。


――ふむ。しかし、《杳体》とはそもそも《闇》のことではないのかね? 


――へっ、さう来たか。《闇》もまた《杳体》の一位相に過ぎぬ。


――暗中模索だね……。《杳体》に《重なり合った》主体は光と闇の間をも振り子の如く揺れ動く、違ふかね? 


――簡単に言へば確率零と一の間を主体は《杳体》と《重なり合ふ》ことで揺れ動く。


――ぶはっ。確率零と一の間を揺れ動くだと? それじゃ、此の世に存在したものの分しか勘案してゐないじゃないか? 死んだもの達と未だ此の世に出現ならざるもの達は何処へ行った? 


――ちぇっ、簡単に言へばと断ったではないか! 続けて言へば《杳体》と《重なり合った》主体は確率零のときに死んだもの達や未だ出現ならざるもの達の呻きの中に没し、そして確率一のとき自同律の不気味さを心底味はひ尽くさねばならないのだぜ。もしかすると確率一のときこそ死んだもの達と未だ出現ならざるもの達の怨嗟が満ち満ちてゐるかもしれないがな。


――確率一の不気味さか……。


――確率零も不気味だぜ。


――零と一との間(あはひ)にたゆたふ吾か……。それはきっと主体にとって残酷極まりないものに違ひない。


――へっへっへっ、主体は《杳体》と《重なり合って》無間地獄を潜り抜けねばならぬのさ。


――その時初めて《吾》は「吾」と呟けるのであらうか? 


――それは如何かな。《吾》は無と無限の残酷さを味はひ尽くすまで「吾」とは多分呟かないだらう。


――無と無限の残酷さか……。


――違ふとでも? 


――いやな、パスカルの言葉を思ひ出しただけさ。


――日本語訳では「中間者」と訳されてゐるが、「虚無」と「無限」の間、英訳ではbetweenといふ《存在》の在り方か……。


――さう……《存在》の在り方さ。確率零と一との間(あはひ)を揺れ動くのは地獄よりも尚更酷いものだぜ。だって「私」を幾ら揺すったところで《異形の吾》以外の何が出て来るといふんだい? 


――《異形の吾》ね……。


――それでは物足りないんだらう? 


――ふっふっふっふっ、その通りさ。《異形の吾》では物足りぬ。其処でお前の言ふ《杳体》さ。《杳体》に《重なり合ふ》主体とは、さて、どんなものなのだらうか? 


――無と無限を跨ぎ果(おほ)す過酷な《存在》の在り方さ。


――無と無限を跨ぎ果すか……。「中間者」にとっては過酷だな。


――へっ、過酷で済めば未だ良い方だぜ。大抵は途中で逃げ帰るのが落ちさ。


――逃げ帰る? 何処へ? その時「私」は既に「私」でない何かになって仕舞ってゐるんじゃないのか? 


――へっ、廃人さ。それとも狂人か。しかし、それはそれで極楽に違ひない。


――「私」のゐない「私」が極楽か……。否、それは地獄に違ひない! 


(三 終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009/02/23 04:03:13 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 廿一
――其処に滅び行く《もの》の悲哀はあるかね? 


――へっ、ありっこないさ。仮にその《悲哀》があったとしてもだ、《主体》はとことん《主体》であり続けたいが為にその《悲哀》に冷笑を浴びせ掛けるに違ひない。それ程まで《主体》は醜い生き物なのさ。つまり、《新体》は夢のまた夢だ――。


――……、ところが仮に《世界》が先に相転移をしたならば、《主体》は尚も《主体》であることは不可能なのだから《主体》も変容せざるを得ないのじゃないかね? 


――もしさうだとしてもだ、《存在》は《自意識》から遁れられはしない! 《世界》もまた己の《自意識》から遁れられやしないのさ。《自意識》に例外はあり得ぬのだ。


――つまり、《主体》の解脱、つまり《新体》は泡沫の夢だと? 


――違ふかね? 先づは《主体》をとことん生き抜いてみるんだな。それで己の醜さをその目に焼き付けるんだ。さうしなければ何にも始まりはしない! 


――後世出現する《主体》の為に? 


――ああ、さうだ。死んだもの達と未だ出現ならざる未来の《主体》の為に、己を生きる《主体》はその醜悪極まりない生き方を味はひ尽さねばならない。それはこの《世界》も《宇宙》も例外ではない。全ての森羅万象は愚劣極まりない《自意識》の傍若無人ぶりを味はひ尽くさねばならぬ定めなのだ。


――それが現在存在する《もの》の存在せざる《もの》達への礼儀だとして、例へば《自意識》を徹底的に虐待するとすれば、その時《主体》は尚も《主体》であり続けるのかい? 


――ふっ、既に《自意識》は虐待の極みを受けてゐるじゃないか? 


――それは《存在》すること自体がそもそも《自意識》への虐待だといふことかね? 


――違ふとでもいふのかい? 


――へっへっへっ、また堂々巡りだね。


 彼の闇の視界は既に闇である事に堪へ切れず、多分、脳といふ五蘊場が勝手に網膜に刺激を与へてゐるに違ひないのだが、薄ぼんやりと淡く更に淡い極小の光の粒子群の帳を彼の視界に浮かび上がらせてゐたのであった。彼は再び瞼をゆっくりと閉ぢて彼の闇の視界に自発した淡い淡い淡いその光の帳をぼんやりと眺めるのであった。


――へっ、どうも《世界》の方が《主体》よりも先に相転移しさうだね。


――その時、《世界》は物理的変化を劇的に遂げるが、そんな環境に順応すべく《主体》も変はらざるを得ないのじゃないかね? 


――……、多分、《主体》は《存在》が《存在》する限り《世界》が相転移しようがしまひが存続するに違ひない。但し、《実体》は最早相転移以前の《実体》と同じではあり得ない《何か》に《世界》と同じく相転移を遂げる。そして《反体》も然りだ。


――すると《魂》も相転移する? 


――《魂》は、つまり、相転移し見事《変容》を成し遂げた《実体》と《反体》による対消滅から派生するSolitonの如き未知の孤立波は、未知の《何か》に変化はするかもしれぬが、多分、その実質は何の変化もないに違ひない筈だ。


――何故変化はないと? 


――相転移したとはいへ、《世界》は相変はらず《世界》として、そして《宇宙》は相変はらず《宇宙》としてしか《存在》しないからさ。それに《魂》は未来永劫消えぬ未知の孤立波だと言った筈だがね。


――それは相転移によって滅亡した《前世界》についても、滅亡した《前宇宙》についても同じだと? 


――ああ、同じだ。相転移によって滅亡した《前世界》の、そして《前宇宙》の《魂》は不滅の孤立波として此の世を彷徨ふ……。


――Solitonの如き孤立波は如何あっても未来永劫此の世を彷徨すると? 


――特異点とて同じ事だ。


――つまり……《存在》は無と無限の間を尚も揺れ続けると? 


――さうでなくて《存在》が《存在》を味はひ尽くせるかい? 


――それは詰まる所、《存在》がその内部に特異点を隠し持ってゐる故に必然の事といふことだね? 


――ああ、《存在》にとって無と無限は何としても捩じ伏せておかねばならぬ鬼門に外ならない――。


(廿一の篇終はり)



自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009/02/21 04:26:33 プライベート♪
思索
水際 三
――自他無境の位相に戯れ夢中遊行する《個時空》たる《主体》は、此の世の縺れを解く《解》として別の《個時空》たる《他》を見出しつつも、《パスカルの深淵》に《自由落下》せざるを得ぬ宿命を負ってゐるとすると、さて、《個時空》たる《主体》は《異形の吾》共と共振を起こすとはいへ、その時底無しの孤独を味はひ尽くしてゐるに違ひない筈だが……。


――当然だらう。この宇宙の涯たる《他者》を見出してしまったのだからな。それも彼方此方に宇宙の涯が存在する。さて、この時《主体》は尚更己の孤独を噛み締めなければならないのだが、大概の《主体》はその孤独から絶えず遁走し続け、自らを自らの手で《個時空》の涯、つまり《水際》へと己を追ひ込み、それでゐて己から逃げ果せたとしたり顔で嗤ってゐるが、その実、《個時空》たる《主体》は《「個」時空》が《「孤」時空》へと相転移してゐることに気付きやしない。だからキルケゴール曰く「死に至る病」といふものに罹り絶望するのさ、己自身に対してな。


――其処で己が《自由落下》してゐることに思ひ至る? 


――否、大概は《自由落下》してゐることすら気付かない。


――それじゃ、《主体》は何にも知らずに犬死してゐるといふことか? 


――ああ、さうさ。何をもって犬死と言ふかにもそれはよるがね。しかし、《主体》は己が《パスカルの深淵》に《自由落下》して地獄を彷徨ひ歩き、さうして詰まる所、己に関しては何にも知らずに犬死してその一生を終へる。だが、さうするとだ、犬死する事は幸せな事だぜ。


――幸せ? 


――さうさ。《自由落下》してゐる事を知らずにゐられるのだから、これ以上の幸せが何処にある? 


――それじゃあ、自他無境の境地は絵に描いた餅に過ぎないじゃないか! 


――へっ、それで構はないじゃないか。《主体》は《「孤」時空》の中で自存するのだもの、これ以上の幸せはない! 


――へっ、この皮肉屋めが――。


――矛盾を孕んでゐない論理は嘘っぱちだといったらう。つまり、自他無境と《「孤」時空》は紙一重の違ひに過ぎないのさ。


――どちらにせよ、底無しの《パスカルの深淵》に《自由落下》してゐることに変はりはしない。それじゃあ、《自由落下》を己の《落下》と認識出来てしまった《もの》は如何なる? 


――生き地獄に堕ちるだけさ。


――へっへっ、生き地獄ね――。


――認識してしまった《もの》は、《個時空》たる《主体》では背負ひ切れぬ懊悩を背負はなければならない。


――《主体》がそれに堪へ得ると? 


――いや、別に堪へる必要はこれっぽっちもない。


――それじゃあ、地獄に堕ちるのみと? 


――へっへっへっ、地獄も住めば都さ。地獄で足掻くから苦しいのさ。地獄に身を任せてしまへばこんな楽しい処はないぜ、へっ。


――楽しいと? 


――ああ、地獄程楽しい処はないぜ。


――何故楽しいと? 


――断念できるからさ。何事に対しても地獄では断念する外ない! 


――断念? それは《主体》であることを断念することかね? 


――さうさ。吾は《個時空》たる《主体》であることを自ら断念する。さうしなければ地獄でなんぞ一時も生き残れる訳がない! 何故って、地獄では絶えず己は己であることを強要されるのだからな。


――それじゃ蟻地獄ならぬ《吾地獄》から一歩も抜け出せない、つまり、吾に自閉した存在に過ぎないじゃないか! 


――否、《パスカルの深淵》に《自由落下》すると、さて、《個時空》たる《主体》は加速度的にその落下速度を増すが、それが何を意味するか解かるね? 


――光速か……。


――へっ、つまり、《個時空》たる《主体》は或る臨界を超えると相転移を成し遂げるのさ。


――その時、《無私》の境地が拓かれる? 


――さてね。


(三の篇終はり)


自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。

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2009/02/16 04:36:42 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 廿
――Soliton(ソリトン)? 


――Solitonの如き孤立波さ。


――それが永劫に消えぬと? 


――ああ。


――それを《魂》と呼んでも構はぬか? 


――呼びたいやうに呼んだらいいさ。


――Solitonね……ふはっはっはっはっ。


――ちぇっ。


――まあよい。よれよりもだ、するとSolitonの如き孤立波となりし《魂》は、永劫に、ある種の波動体として存在することを、それは意味してゐるのか? 


――さうさ。永劫、それを《無限》と言ひ換へても構はぬが、Solitonの如き孤立波として存在する《魂》は「吾、然り」と《吾》たる存在を全肯定するのさ。


――それは全否定ではないのかね? 


――ふっふっふっふっ。詰まる所、同じ事さ。


――えっ、全肯定も全否定も同じだと――。


――ああ。《主体》を解脱せし《吾》は相転移を見事成し遂げて新=存在体、略して《新体》へと変化する。


――へっへっ、今度は《新体》の登場か。それは詰まる所娑婆で生きる衆生には《新体》は永劫に訪れないといふ事と全く同じ事ではないではないのか?  


――否、あの《存在》の深き深き深き《深淵》を《自由落下》する《意識》においては必ず《実体》と《反体》の対消滅の果てに相転移を成し遂げ、《新体》へと解脱するその臨界点が存在する筈さ。


――それは……彼の世の事ではないのかね? 


――ああ、《主体》にへばり付いてゐる《生者》にとっては彼の世の事に違ひない。しかし、《主体》であることを《断念》した《生者》にとっては娑婆が即ち《新体》が存在する世界に成り得る可能性がある。


――可能性があるだと? 蓋然性で済む問題か?  


――……一つ尋ねるが、お前は狂人として生きる覚悟はあるかい? 


――何を藪から棒に。それと《新体》と何の関係があるのかね? 


――つまり、《新体》は衆生にとっては狂人としか思へぬ存在形態だからさ。


――やはり狂気の沙汰か……。


――《主体》が《主体》であることを《断念》するのだから、それは衆生にとっては狂気の沙汰にしか見えぬが、しかし、衆生たる《主体》はその深き深き深き《深淵》の底の底の底にある《彼岸》へともんどりうって飛び込む外に、へっ、哀しい哉、《主体》が《生者》たる存在体として生き残る術は最早残されてゐないのさ。


――端的に言ふが、それは《主体》の自慰行為に過ぎないのじゃないかね? 


――ふっふっふっふっ、その通り《新体》への変化は《主体》の自慰行為に過ぎぬ。そして、《主体》はその自慰行為に耽溺するのさ。


――そして自滅すると? 


――ふっ、さう、《新体》に解脱せぬ限り何処までもその深き深き深き《深淵》を《自由落下》して、最後は自滅だ……。


――《主体》は如何あっても《新体》に解脱するか《主体》が《主体》たるといふその自慰行為に耽るかのどちらかしかないと? 


――ああ、《主体》が《世界》の王たる《主体天国》は疾うに終はりを告げたのさ。


――ところが、哀しい哉、それでも《主体》は生き恥を曝して生き続ける筈だ。


――やはり何処までも醜いかね、《主体》といふ生き物は? 


――ああ、愚劣極まりないのさ、《主体》といふ生き物は。


――すると《新体》の到来はあり得ぬと? 


――《新体》に成りたい奴が成ればいいのさ。


――へっ、これからが《主体》のその愚劣極まりない醜態を否が応でも目にする外ない地獄変の世界が訪れるのだ! 


(廿の篇終はり)


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2009/02/14 04:47:13 プライベート♪
思索
睨まれし 三
――ふっふっふっ、神は神であることに懊悩してゐると思ふかい? 


――勿論、神だって神であることに懊悩してゐる。神すらも《存在》からは遁れやしない! 


――すると、神もまた底無しの《存在》の《深淵》を覗き込んでゐると? 


――へっ、神は神なる故にその《深淵》の底の底の底に棲んでゐるのさ。


――はっはっはっはっ。


 それにしても《そいつ》の笑顔は悍(おぞ)ましい限りである。つまり、私といふ《存在》がそもそも悍ましいものであったのだ。


 《そいつ》は更にその鋭き眼光を光らせ私の瞼裡で私をぎろりと睨み付けるのであった。


――ならば、神は神なるが故に《永劫の懊悩》を背負ってゐるといふのか? 


――勿論さ。神たるもの《永劫の懊悩》を背負へなくて如何する? 


――つまり、神ならば《永劫の懊悩》を背負へ切れると? 


――へっ、背負ひ切れなくて如何する? 《永劫の懊悩》で滅ぶやうな神ならば《存在》しない方がまだましさ。


――つまり、神はその《存在自体》がそもそも《存在》に呪はれてゐると? 


――ああ、神は《存在》しちまったその時点で既に呪はれてゐるのさ、その《存在自体》にな。くっくっくっくっ。


 いやらしい嘲笑であった。《そいつ》は何といやらしい嗤ひ方をするのであらうか。


――つまりだ。神は自ら《存在》することで生じる《矛盾》を全て引き受けた上でも泰然として、そして《存在》の《象徴》として《自然》に君臨するのさ。


――自然に君臨するだと? 逆じゃないのか? 《自然》が神共に君臨するんじゃないのかね? 


――《自然》もまた神だとすると? 


――へっ、八百万の神か――。


――哀しい哉、人間は生(なま)の《自然》を憎悪してゐる。更に言へば、人間は《自然》を一時も目にしたくないのさ、本音のところでは。しかし、《現実》に絶えずその身を曝さざるを得ぬ。くっくっくっくっ。ざまあ見ろだ、ちぇっ。


 《そいつ》が舌打ちした時の顔といったら、それ以上に悍ましいものはないのである。虫唾が走ると言ったらよいのか、私は思はずぶるっと身震ひをせずにはゐられなかったのである。


――すると、《存在》とは常に《現実逃避》を望む《もの》だと、つまり、《存在》とは常に《現実》にその《存在》を脅かされ、へっ、そしてそれが《存在》を《変容》させる根本原因だといふのか? 


――さうさ。だから《存在》は全て《夢》を見る。


――神もまた《夢》を見ると? 


――ああ、勿論。


――《夢》を見ることが生理的な現象なのは勿論だが、それ以上に物理的な現象の一様相なのか? 


――当然だらう。


――つまり、《夢》を見ることでその前後の《夢見るもの》の、例へば質量は変化すると? 


――ああ、多分な。しかし、その変化はほんのほんのほんの僅かしか変化しない為に測定は不可能さ。人間が《光》を《物質》に還元する術を手にした時、初めて人間は《夢》の質量を測定出来る筈だ。


――《夢見る神》の《夢》の質量もかね? 


――その時点で《無限》を手懐けてゐれば、当然測定可能だ。


――やはり神の問題には《無限》は付いて回ざるを得ないのか――。


――ふん、《無限》に恋焦がれてゐるのに、これまた如何した? 


――本当のところ、《無限》を渇仰してゐるのに、いざ《無限》を前にすると、へっ、哀しい哉、《無限》に対して何やら不気味な何かを、多分、それは《不安》と名指されるべきものに違ひないが、その《不安》を感じて足が竦み慄いてしまふのさ。


――それは当然至極のことさ。《無限》を恐れ慄くのは《存在》にとっては《自然》なことだ。


――《自然》なこと? 


――ああ、《存在》は《自然》に《無限》の面影を見出してしまふ習性があるからな。


――つまり、《存在》は《自然》に絶えず追ひ詰められてゐると? 


――ああ、《存在》は《変容》することを《現実》といふ《自然》に強要されてゐる。


――《存在》の逃げ道は? 


――無い。


――へっ、これっぽっちも無いのかね? 


(三の篇終はり)



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2009/02/09 04:59:51 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 十九
――そもそも《反体》は生に対する死と同類のものではないのか? 


――違ふ……そんな気がする……。


――違ふか……。


――…………。


――…………。


――多分……《反体》は《実体》の死を誘発する何かさ。


――死を誘発する何かだとすると《反体》は死とは別の何かだな……それが《主体》内部に潜んでゐるとなると……これは《主体》にとって大事じゃないかね? 


――さうさ。《主体》は既に狂乱状態じゃないか? それにも拘らず今まで誰も《反体》を《反体》と名指さずにやり過ごさうと躍起になってゐたが、最早それが限界に達した……。つまり、《実体》たる《主体》はちょっとした事が切っ掛けで爆発してしまふ臨界状態にある。


――それを鎮めるのが、つまり《反体》か? 


――いや、《反体》は寧ろ《主体》の臨界状態を破り《主体》を爆発させる誘発剤になってしまふ筈さ。


――へっ、つまり《主体》の相転移か? 


――さう――。《主体》は一度滅んで相転移をする外に最早《主体》が存続する余地はこれっぽっちも残されてゐない。


――《主体》が相転移するには《反体》が必須といふことか――。


――つまり、《主体》は《主体》を後生大事にしてきたそのつけが今の《主体》に回って来たのさ。


――所詮、《主体》は《主体》に過ぎぬといふ事か……。


――そして《主体》は《主体》でしかない為に自壊してしまった……。その時になってやっと《主体》は《反体》と共存してゐることに気付いたのだ。全く、時既に遅しだ。


――すると《主体》内部は《反体》の天下か? 


――さういふ事さ、へっ。


――ふっふっふっ、さうすると《主体》はその身を矛盾に捩じりに捩じられ息も絶え絶えにやっとその存在を維持してゐるに過ぎぬといふことか……。


――へっへっへっ、《主体》の滅び方程みっともないものはないぜ。


――そんなに醜態かね、《主体》の滅び方は? 


――ああ、見るに堪へないね。滅ぶならもっと潔く滅んだ方が《主体》剿滅後に出現する新たな《何か》の為だよ。


――さて、《主体》は剿滅すると思ふかい? 


――ああ、如何あっても滅んでもらはないといけない。


――ちぇっ、結局《主体》は《主体》であることを持ち切れずに邯鄲の夢を見てゐるに過ぎぬのか――。


――さうさ。そんな奴等はさっさと此の世から退場するのが筋だ。


――《主体》が此の世から退場したとして、その後存在は自身を何と名指すのだらうか? 


――へっ、《実体》と《反体》の対消滅によって新生する《何か》が存在自体に君臨する筈さ。


――新しき《何か》が対消滅によって新生すると思ふかい? 俺は如何もさうは思へぬのだが……。


――つまり、相変はらず《主体》は生き恥を曝し続けると? 


――ああ、《主体》はとことんその生き恥を曝し続けるに違ひない。


――それでも《実体》と《反体》の対消滅は起こり、《主体》は此の世ならぬ《光》となって此の世から消え去る……。


――それでもその対消滅の残滓は残るさ。


――残ると思ふかい? つまり、《実体》と《反体》は等価ではないと? 


――等価であっても《実体》と《反体》による対消滅の衝撃はSoliton(ソリトン)の如く、つまり永劫に消えぬ孤立波となって此の世に残るのさ。


(十九の篇終はり)



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Profile
積 緋露雪
性別男性
年齢45歳
誕生1964年2月25日
星座うお座
血液O型
身長172cm
体型痩身
職業物書き
地域関東
性格穏やか
趣味読書,クラシック音楽鑑賞
チャーム特になし
自己紹介
3度の飯より思索好き今もって独身
Parts

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