――へっ、神は計測できるといふのかね?
――例として解かり易く重力と時間を出しただけで、《神=重力と時間》ではないぜ。だが、神もまた計測可能で論理的に理解可能な何かなのは間違ひない。
――それはお前が一人合点してゐるだけじゃないのかね?
――へっ、そもそも神を語るといふことは一人合点することじゃないのかね?
――つまり、神もまた悪魔の如く万物に変幻可能な、そして「ファウスト」のメフィストーフェレスの言葉を持ち出せば《常に悪を欲して、しかも善をなす、あの力の一部です》といふことから神を類推すれば《常に善を欲して、しかも悪を為す、あの力の一部です》といふ言説が出てくる訳だ。違ふかね?
――ふっ、勿論だとも。そして神は《存在》に坐し、《非在》に坐し、《未存在》に坐すのさ。
――神もまた《主体》次第といふことか――。
――へっ、神が《存在》すると思へば神は《存在》し、神が《存在》せずと思へば神は一切《存在》せずさ。
――しかし、全てを《主体》に帰すのは危険極まりないことじゃないのかい?
――ちぇっ、既に《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に全てを担はなければならぬ運命にあったのさ。だから、《主体》は神をも担ふそれこそ《神業》若しくは《インチキ》を何としても成し遂げねばならぬのさ、へっ。
――へっへっ、つまり、《主体》自体が《インチキ》だと?
――ああ、勿論。《主体》こそ此の世の中での《インチキ》の中の最たる《もの》さ。
――しかし、《主体》自体は、その《インチキ》な《主体》に振り回され、神に振り回される。それを全て《インチキ》に帰して済ますのは問題があるのじゃないかね?
――へっ、済む訳がなからうが! しかし、《主体》は《主体》といふ言葉が誕生した刹那に、それが《インチキ》の汚名を受ける覚悟をし、腹を括った筈さ。さうせずには此の不合理極まりない世界に《存在》など出来やしなかった筈だからね。
――へっ、つまり、此の世そのものが《インチキ》だと?
――それは解からない……。
――解からない? 此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切ってしまへばいいだらうが――。
――へっ、さう言ひ切ったところで何も変はらないし、ましてや《主体》は此の世から遁れられやしないぜ。此の世の森羅万象が《インチキ》だと言ひ切って全てを神の気紛れに過ぎぬと看做したところで、この宇宙も《存在》も痛くも痒くもないぜ。
――しかし、《インチキ》ならば手品の種の如くその《インチキ》のからくりは解かるだらう?
――つまり、此の世の森羅万象が論理的に理解可能だと?
――ああ。
――しかし、さうやって此の世の《インチキ》のからくりが論理的に理解出来たところで、《主体》は生きた《主体》としてこの世界のからくりに組み込まれやしないぜ。つまり、《主体》は論理的かつ存在論的な《死》を宣告されて初めて《インチキ》な此の世に登場可能な《存在》に変化出来るに過ぎぬ。そもそも《主体》が、ちぇっ、《インチキ》な《主体》が、「此の世の森羅万象は《インチキ》だ」と言いひ切ることは存在論的に無責任だらう?
――存在論的な無責任?
――つまり、全てを邯鄲の夢の類に看做したい《主体》は、それでも厳然と此の世に《存在》しちまってゐるのさ。
――つまり、「然り」から始めよと?
――へっへっ、土台、此の世が《インチキ》で済む訳がない!
――詰まる所、《主体》は事実がそもそも嫌ひなのか――。
――例へば、科学的に論理的にどんなに精密に此の世のからくりを説明されても、《主体》は内心では「へっへっへっへっ」と嗤って、その科学的な論理をせせら笑って端からそんな《もの》で《存在》に肉薄など出来っこないと高を括ってゐる。
――それは何故かね?
――つまり、《一》=《一》がそもそも《インチキ》だからさ。その《インチキ》の上に築かれた《もの》が《インチキ》でなくて如何する?
――へっ、《吾》=《吾》の自同律も《インチキ》だらう? しかし、《主体》はその《インチキ》に縋り付くしかない――。
――それは何故かね?
――つまり、此の世は渾沌に違ひないが、それでもその渾沌を宥めすかして小さな小さな小さな糸口かもしれぬが、秩序を此の世に与へたいのさ。それは、何処まで行っても虚無でしかないことを知りつつも如何あってもその《インチキ》のからくりは解明して、而も何処まで行っても深い闇に包まれたままの《吾》を白日の下に曝したいのさ。しかしながら現時点では、自身には秩序あると考へてゐる《主体》には此の世を渾沌のままでは担へぬ矛盾に《主体》は直面してゐるといふのっぴきならぬ処へと追ひ詰められてゐる。
(三十六の篇終はり)