さて、四人称の《吾》とはそもそも一体何であらうか。答へは単純明快である。此の世を五次元多様体と想定すれば、四人称の《吾》が登場せずにはゐられないである。更に言へば、頭蓋内の闇を五次元の五蘊場と想定すれば、四人称の《異形の吾》はこの五次元の《吾》に巣食ひ、頭蓋内を六次元の五蘊場と想定すれば五人称の《異形の吾》がこの六次元の《吾》に巣食はざるを得ないである。そして、その四人称の、そして、五人称の《異形の吾》こそ擂鉢状の蟻地獄の形状をした穴凹としてのみ《吾》には絶えず形象されてしまふのである。今現在《主体》が四次元時空間に事実《存在》してゐるとすれば、その《主体》は例へばBlack hole(ブラックホール)を形象するのにやはり擂鉢状をした底無しの穴凹を形象せずにはゐられぬこととそれは同一のからくりに違ひないのである。つまり、吾等の思考法は、詰まる所、世界内の《主体》のそれでしかなく《主体》以外の思考法が想像だに出来ない《主体》の思考の限界若しくは宿命と呼ぶべき、《主体》のど壺にすっぽりと嵌まって其処から永劫に脱することなき《主体》といふ《単一》な思考法のことなのである。それ故《主体》即ち《吾》にとって《他》は絶えず宇宙の涯をも想像させる超越者としてしか出現しないのである。否、《他》は超越者としか出現の仕様が無いのである。そして、《他》は依然として謎のまま《主体》の面前に姿を現はすが、《主体》たる《吾》は、実のところ、《吾》の反映としか理解出来ない《他》に特異点を見出してしまふ筈である。否、《主体》たる《吾》は《他》に特異点を見出さなければならぬのである。それは詰まる所、《他》を鏡とする外ない《主体》たる《吾》にとってその《吾》は如何あっても無限を憧れざるを得ない故にその内部に特異点を隠し持ち、その《吾》にある特異点こそ何を隠さう蟻地獄状の穴凹としてぽっかりと大口を開けた《もの》として絶えず《主体》は形象することになるのである。パスカルはそれを「深淵」(英訳Abyss)と言挙げしたが、《主体》が《存在》するには絶えずその深淵と対峙することが課されてゐるのである。そしてそれは口を開いた穴凹として形象せざるを得ず、万が一にもその穴凹の口を塞いでしまふと、《主体》は《実存》といふ《閉ぢた存在》でしかない《存在》の罠にまんまと引っ掛かってしまふのである。
《主体》は宇宙史の全史を通して穴凹が塞がりこの宇宙から自存した《存在》として出現した例は今のところ無い筈である。眼窩にある目ん玉の瞳孔を通して外界を見、鼻孔を通して呼吸をし、口を通して食物を喰らひ、肛門を通して排便をし、生殖器を通して性行為をする等々、《主体》は必ず外界に開かれた《もの》として此の世に現はれるのである。つまり、《主体》はこれまで一度も穴凹が塞がれた《単独者》であったことはなく、《主体》自らが穴凹だらけといふばかりでなく、外界たる世界もまた《客体》即ち《他》といふ特異点の穴凹だらけの《もの》として《主体》には現はれてゐる筈なのである。そして《主体》にとっては内外を問はず深淵たるその穴凹に自由落下する方が《楽(らく)》なのもまた確かなのであるが……。
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さて、翌日、小学校から帰った私は一目散に例の神社へと向かったのであった。其処で幼少の私は先づ何故蟻地獄が高床の神社のその床下の乾いた土の、それも丁度雨が降り掛かるか掛からぬかの境界に密集してゐるのかを確かめた筈である。そして、私は、蟻地獄が密集してゐるその方向の数メートル先に桜の古木が立ってゐるのを認めたのであった。幼少の私は多分、何の迷ひもなくその桜の古木に歩み寄り、そして蟻の巣を探した筈である。案の定、その桜の古木の根元には黒蟻の巣の出入り口があり、絶えず何匹もの黒蟻がその出入り口を出たり入ったりしてゐるのを見つけたのであった。
――やはり、さうか。
蟻地獄が雨が降り掛かるか掛からぬかの境界辺りに密集してゐたのは自然の摂理――これは一面では残酷極まりない――としての生存競争故の結果に過ぎなかったのであった。そして、幼少の私は其処で黒蟻を一匹捕まへて蟻地獄が密集してゐる処に戻ったのである。次にざっと蟻地獄の群集を見渡し、その中で一番穴凹が小さな蟻地獄に捕まへて来た黒蟻を抛り込んだのである。
――そら、お食べ。
擂鉢状の穴凹の底からちらりと姿を現はした蟻地獄は、果たせる哉、昨日目にした蟻地獄とは比べものにならぬ程、小さな小さな小さな姿を現はしたのである。その小さな蟻地獄は高床下の最奥に位置してゐたに違ひなく、私は、その小さな蟻地獄が黒蟻を挟み捕まへて地中に引き摺り込む様をじっと凝視してゐた筈である。
――そら、お食べ。
後年、梶井基次郎の「桜の樹の下には」に薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)の死骸が水溜りの上に石油を流したやうに何万匹もその屍体を浮かべてゐるといふやうな記述に出会ってからといふもの、桜を思へば蟻地獄も必ず思ふといふ思考の癖が私に付いてしまったのは言ふ迄もないことであった……。
(完)