――仮令、論理的飛躍に錯覚や幻視が必要だとしても、其処ではきちんとした手順を踏んでゐないと滅茶苦茶な論理ばかりが跋扈するとんでもない事態が到来するぜ。
――其処さ。《主体》は傍から見ればそれが滅茶苦茶な論理であってもそれを滅茶苦茶な論理とは決して看做せないから、結局のところ滅茶苦茶な論理ばかりが世に蔓延るのではないかね?
――ふっ、例えば狂信者の類か?
――さう。狂信者は傍から見れば矛盾だらけの滅茶苦茶な論理を全き真理として盲信する。それは何故かね?
――その問ひに答へる前に一つ尋ねるが、お前は傍から見ればと言って済ませてゐるが、狂信者の信ずる《もの》が滅茶苦茶な論理であるとさう判断するそのお前の判断根拠は、つまり、一体全体お前は何処に依拠して滅茶苦茶な論理であると判断を下せるのか? それは言ふなれば、或る種の《主体》が《主体》といふ《存在》を伝家の宝刀の如く振り翳(かざ)す傲慢といふ行為ではないのか?
――つまり、お前は、その判断根拠は、《主体》たる《もの》は大概相対的な処にゐる故に《主体》の判断根拠は相対的な《もの》に過ぎぬと言ひたいのだらう?
――へっ、罠を張ったな。
――罠?
――相対的といふ名の罠だ。
――《主体》の《存在根拠》を相対化することが罠か?
――ああ。軽々に相対的といふ言葉は遣はない方がいいぜ。
――それはまた何故に?
――《主体》の《存在根拠》を相対化することは、即ち《主体》をどん詰まりの《単独者》へと追ひ込む罠に過ぎぬからさ。相対的といふ言葉は《主体》の耳には心地良く響くが、その実、相対的とは、《主体》の尻は《主体》自身で拭へといふ自閉した《自己責任》といふ呪縛に閉ぢ込めたただけのどん詰まりの《単独者》といふ《主体》を大量生産する《存在》の《鋳型》に過ぎぬのさ。
――しかし、《他》が《存在》する以上、《主体》は相対化せざるを得ぬ運命にあるのではないかね?
――それじゃあ、また一つ尋ねるが、人間は人間以外の生き方を相対的に選択できるのかね?
――うむ……。ちぇっ、人間はそれが喩へどんな生き方にせよそれが人間ならば人間以外の生き方を相対的に選択する余地など全くない! しかし……。
――しかし、何かね? へっ、相対化することの馬鹿らしさの一端が解かるだらう?
――それじゃあ、その裏返しとして、絶対の真理があるといふのか?
――いいや、絶対の真理なんぞありゃしない! 此処でまた一つ尋ねるが、お前は《他》が《存在》して初めてお前自身の《存在》を認めるのかね?
――いいや、決して。《他》の出現以前に、それは多分母親の母胎の中の自在なる羊水の中にゆらゆらとたゆたふ時に既に《吾》は《吾》の《存在》を言葉未然に感覚的に知って仕舞ってゐる筈さ。つまり、《吾》は「先験的」に《存在》しちまってゐるのさ――。
――だからといって《吾》を《他》に対して絶対化する根拠は尚薄弱だぜ。否、相対化かな?
――しかし、《吾》とは《吾》の《存在》をそもそも絶対化若しくは相対化したくて仕様がない生き物ではないのか?
――へっ、絶対化にせよ相対化にせよどちらにせよ、それは、詰まる所、《吾》が《吾》である責任を免れたいだけに過ぎぬことだらう?
――お前は単刀直入に、自同律から逃げることで《吾》といふ《存在》が自身の《存在》の責任を神に委ねて回避してゐるに過ぎぬと言ひたいのだらうが、如何足掻いたところで《一》は《一》を、つまり、《吾》は《吾》であることを強要される。また、《吾》が《吾》であることを強要されることで辛うじて世界は秩序を保ってゐるのさ。
――へっ、《吾》がどん詰まりの《単独者》として《他》に対して絶対化若しくは相対化されたところで、それは一神教の世界像の中でのことでしかないぜ。
――ん? それは如何いふ意味かね?
――一神教の世界像では《一》は何処まで行っても一神たる偉大な神と一対一で対峙する《一》でしかない。でなければ一神の下では《平等》はあり得ぬからさ。
――多神教の世界像でも《一》は何処まで行っても《一》でしかないのではないのかね?
――へっ、多神教の世界像では《一》は変幻自在だ。
――変幻自在? その根拠は?
――多神教の世界像では究極のところでは、《主体》が《存在》してゐようがゐまいが、神々さへ《存在》してゐれば世界は既に自存してゐるからさ。
――つまり、多神教の世界像において《一》たる《主体》は無にも無限にもなり得ると?
――へっ、違ふかね?
――だから零といふ概念は印度で発見されたと?
――へっ、違ふかね?
――しかし、それでも尚、多神教の世界像において《一》たる《主体》が変幻自在たる根拠は薄弱だぜ。
――端的に言へば多神教の世界像において《一》たる《主体》は神々と伍することが可能なのさ。そして、一神教では《一》たる《主体》は神と対峙はするが伍することはあり得ぬのだ。
(三十四の篇終はり)