――つまり、死後の《私自身》の幻が神の幻影といふことか?
――否! 死後の《私自身》ではない! 朧に頭蓋内の闇に浮かぶ彼の世にゐる《私自身》といふ幻影さ。
――へっ、彼の世の《私自身》といふ幻影と死後の《私自身》の幻影と如何違ふ?
――へっへっへっ、正直に言ふと何となくそんな気がするだけさ。しかし、彼の世は彼岸を超えた或る表象以上には具体化出来ぬが、死後は《私自身》がゐないだけの世界が相変はらず日常として続く《他》のみが《存在》する具体的な世界像さ。
――それでも詰まる所は唯何となくそんな気がするだけか? 金輪際までその直感を詰めると何となくで済む問題か?
――へっへっへっ、済むんじゃなくて済ませちまうのさ。
――随分、強引だね。
――論理的飛躍をするには強引に済ませちゃうところは強引に済ませちまへばいいのさ。
――しかし、論理的飛躍なんぞそもそも誰も望んでゐないのじゃないかね?
――だからこそ、その論理的飛躍の最初の一歩をお前が踏み出すのさ。それ! 《杳体》と《重なり合って》みろ!
――これまた愚問だが、そもそも《杳体》と《重なり合ふ》とは如何いふことかね?
――へっへっへっ、何度も言ふやうだが、《杳体》と《主体》が《重なり合ふ》とは無と無限の間を揺れ動くことさ。
――それも振り子の如くね……。しかし、《主体》が《杳体》と《重なり合ふ》必然性があるとは如何しても思へぬのだが……。
――何を馬鹿なことをぬかしをるか! 必然性もへったくれもない処まで《主体》は追ひ詰められてゐるんだぜ。
――何に追ひ詰められてゐるといふんだね?
――《主体》自体にさ。
――《主体》が《主体》を何処に追ひ詰めるといふんだね?
――《存在》の縁さ。
――《存在》の縁?
――さう。既に《主体》は《主体》自らによって《存在》の縁に見事に追ひ詰められた。後は《存在》の行き止まり、つまり、《存在》の断崖へと飛び込む外ない。
――《存在》の断崖だと?
――ふっふっふっ、例へば、今現在《主体》はその居場所にちゃんとゐると思ふかい?
――いいや、ゐるとは思へぬ。
――するとだ、《主体》は《主体》の居場所から追ひ出されてしまったといふことだ。つまり、《存在》の断崖の縁ぎりぎりの処へと追ひ詰められてしまったのさ。
――《主体》自らかが?
――さうさ。《主体》自らが《主体》を《存在》の断崖へと追ひ詰めたのさ。後は《主体》の眼下に雲海の如く《杳体》が杳として知れずに拡がってゐるだけさ。そら、その眼下に拡がる《杳体》へ飛び込め!
――馬鹿も休み休み言へ。飛び込める筈がないじゃないか!
――哀しき哉、我執の《吾》の醜さよ。
――ちぇっ、《吾》が我執を捨てちまったならば《吾》は《吾》である訳がない!
――何故さう思ふ? 我執無き《吾》もまた《吾》なり。有無を言はずにさっさと飛び込んじまふがいいのさ。
――簡単に飛び込めとお前は言ふが、杳として知れぬ中へともんどりうって飛び込む程《主体》は頑丈には出来てゐないんだぜ。
(此処で別の異形の《吾》が登場)
――ぶはっはっはっ。下らない! 実に下らない!
――お前は誰だ!
――お前に決まってをらうが!
――ちぇっ、また「異形の《吾》」か……。さて、そのお前が《吾》等に何用だね?
――お前らの対話はまどろっこしくていけない。其処のお前はお前で《杳体》の何ぞやを頭で考へる前に、己を一体の実験体として《存在》の前に差し出して、《存在》の断崖に拡がってゐる雲海の如き《杳体》に飛び込んじまへばいいんだよ。そして、もっ一方のお前は、もっとはっきりと《杳体》を名指し出来ないのか?
――ふっ、馬鹿が――。《杳体》は杳として知れぬから《杳体》なのであって、それを明確に名指し出来れば此方も《杳体》なんぞと命名してゐなかったに違ひないんだ。
――何一人合点してゐるんだい? かう言へねえのかい? 「《存在》は既に杳として知れぬ不気味な《もの》へと変容しちまった」と。
(五 終はり
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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