既に薪を使ふ日常を已めてしまった現代において雑木林は、その落ち葉を田畑の肥料に使ふ以外にその存在意義を失った感があるが、それを映すやうに大概の雑木林は荒れてゐるのが当たり前の風景となって仕舞った時代に生まれ落ちてしまった彼にとって、しかし、雑木林の中を逍遥するのは、日々新たな発見に出くはすので、彼にとっては荒れてゐるとはいへ、雑木林を逍遥するのは止められないものの一つであった。
さうした或る日、彼は大きな虚(うろ)が根元近くにある一本の櫟(くぬぎ)に出くはしたのであった。
――あっ、零だ!
と、彼は思はず胸奥で叫んだのであった。彼は樹の虚を見ると何時も
――零だ!
と感嘆の声を秘かに胸奥で上げては、
――樹もまた《吾》同様《零の穴》をその内部に持ってゐる……。
と、何とも名状し難い感慨を持ってじっと樹の虚を眺めることになるのであったが、つまり、彼にとって樹の虚は或る種の親近感を彼に覚えさせるものの一つであったのである。
虚の出自は零の出自に或るひは似てゐるのかもしれない。その初め一本の細い幹でしかなかった櫟等の広葉樹は、十年から二十年かけてしっかりとした幹に生長を遂げると、薪か炭の材料としてその一本の幹は切り倒される運命にあるのが、雑木林に存在する広葉樹の常であった。
そして、眼前のその虚を持つ櫟の樹もまたしっかりとした樹に生長を遂げると《一》たる幹は薪か炭の材料になるべく切り倒された筈である。しかし、櫟等の広葉樹は主幹を失ったとはいへ死することはなく、かつて存在した《一》たる主幹の切り株から蘗(ひこばえ)の小さな小さな小さな未来の幹たる芽を出すのであった。さうして再び立派な幹に生長を遂げた蘗の幹もまた薪か炭の材料として切り倒された筈である。しかし、当然櫟の樹は再びその切り株から小さな小さな小さな蘗の芽を出した筈である。けれども、時代はBiomass(バイオマス)の時代から石油の時代に移り行き、その櫟の樹は長くそのまま放置されてしまった筈である。さうして《一》たる幹の切り株の跡は虚となって、つまり、「零の穴」となってその櫟は生き続けることになったのであらうといふことは想像に難くない。虚とは、大概、《一》たる幹を人工的に切り倒され、その切り株がその失った《一》たる幹の存在を埋めるべくその切り株から蘗が芽を出したその証左でもある。
また、《零の穴》とはいへ、虚は様々な生命の揺り籠でもある。虚は、或る時は鳥の巣となり、或る時は動物の寝床となり、そして昆虫の棲処となり、と、虚はその様態を変へ生命の揺り籠になるのである。
さて、其処で此の世に存在する森羅万象は、それが何であれ、《吾》や《他》や《主体》や《客体》等の在り方を暗示して已まない《もの》であると看做してしまふと、蘗もまた《存在》の在り方を、つまり、《吾》や《他》等の在り方を暗示する《もの》に違ひないのである。
《吾》は《吾》の内部に《零の穴》たる《虚》、それを《反=吾》と名指せば、《吾》の内部には《零の穴》若しくは《虚》たる《反=吾》がぽっかりと大口を開けて厳然と《存在》する《存在》の在り方も在り得る筈である。それは喩へると、主幹が折れてしまふと必ず枯死する或る種過酷極まりない《世界》に《存在》し、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》として、一本の主幹のみを頼りにして此の世に屹立し生きる《存在》の在り方がある一方で、一度や二度の《吾》といふ主幹が折れようが、再びその折れた主幹の跡から蘗なる《吾》が芽を出すのを許容する何とも慈悲深い《世界》に屹立し生きる《存在》の在り方もある筈である。そして、《吾》とは、蘗の出現を許さない針葉樹的な《存在》しか存続出来ない過酷な《世界》にありながら、最早、不意に《吾》たる主幹を何かに折られた《存在》でしかなく、それでも《存在》することを必死に而も喜んで欣求する蘗たる《吾》を芽生えさせるといふ、或る種の《インチキ》を成し遂げてしまった《存在》しか此の世は最早受け入れなくなってしまったやうに彼には思へて仕方がなかったのであった。しかし、さうなると、《吾》には《零の穴》若しくは《虚》がぽっかりとその大口を開けて《存在》してゐる筈で、彼には如何してもその《吾》の内部の《零の穴》若しくは《虚》ではまた《吾》ならざる《反=吾》の《存在》を棲息させ育む《存在》の揺り籠として《吾》には厳然と《存在》してゐるとしか思へないもまた事実なのであった。
――《存在》の《零の穴》若しくは《虚》には何が棲むか……。
と、彼は己に問ひを発するのであったが
――へっ、《吾》ならざる《異形の吾》に決まってらあ――。
と、せせら笑ふ《異形の吾》が不意にその顔を出すのであった。
(一の篇終はり)