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2019/08/29 19:00:10 プライベート♪
歴史
風船爆弾その他について
最近のラジオ番組によると戦時には思いついても実行できそうにない風船爆弾を考えて実行に移していた話が出て来た。

風船爆弾
https://bit.ly/2oA5cg4

1933年(昭和8年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があった
1939年(昭和14年)には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる。
1942年秋頃中央気象台を中心として日本陸軍と日本海軍に持ち込まれ、別個に開発がはじまった。
アメリカ本土に直接攻撃することで心理的動揺を誘えることとされていた模様。

第148回多摩探検隊「女学生と風船爆弾−前篇−」
https://youtu.be/xeiI3MSL-Fo

第149回多摩探検隊「女学生と風船爆弾 ―後篇―」
https://youtu.be/dFhMMJ_CiCw

ドキュメンタリー「私は伝えたい!風船爆弾〜学徒動員・女学生の証言〜」
https://youtu.be/KmVv7_SmvFQ

【日本軍】風船爆弾 顛末記【珍兵器?秘密兵器?】
歴史 その他
https://oplern.hatenablog.com/entry/2017/07/17/002729

奇想天外 風船爆弾(気球爆弾)
風船爆弾は、読んで字のごとく、風船(というか気球)に爆弾をぶら下げた兵器。
直径10メートルほどの気球に、焼夷弾(5kg焼夷弾または12kg焼夷弾)や対人殺傷用の炸裂弾(15kg爆弾)を懸吊し、米本土を直接爆撃することを目的としていた。
(陸軍製のA型、海軍製のB型があり、若干A型の方が大きかった模様)
誘導装置などはなく、冬季の日本上空で吹く強い偏西風(ジェット気流)に乗って、アメリカへ流れて行く。

気球の部分は主に和紙とコンニャク(糊として使用)から成り、製造にあたっては和紙調達のため全国の和紙手すき業者に増産命令が出されていた。また、接着剤としてコンニャクを使用するため、市場から食用のコンニャクが姿を消したとか。

気球の最終組み立てには広い床のある建物が必要とされたため、東京の日劇、東宝劇場、国技館などを使用した。また、組立作業には女子挺身隊が動員された。

風船爆弾は「ふ号兵器」と名付けられ、悪化する一方の戦局のなか、米本土に対する唯一の反撃手段として計画される。
計画では15,000個の風船を用意し、1944年秋に米本土へ向けて放流することとなっていた。
実際には1944年11月より放流を開始し、最終的には約9,300個の風船爆弾をアメリカへ向けて放射する。その戦果は後ほど…。

技術面
風船爆弾は「気球に爆弾をぶら下げただけ」の兵器ではない。
ジェット気流に乗せて米本土へ到達させるため、いくつかの工夫がなされていた。

まず、対流圏界面(対流圏と成層圏の境界領域)で吹くジェット気流を利用するため、一定の高度を維持する必要がある。
そのため、陸軍第九技術研究所の大槻技術少佐によりアネロイド気圧計を利用した高度保持装置が組み込まれた。
これは、32個の砂袋(バラスト)を積み込み、高度が3万フィート(約9,000m)に低下すると2袋1セットの砂袋を投棄し軽量化、再度巡航高度(3.8万フィート)まで上昇させるというものだった。
また、気球外皮についても低い気圧と超低温に耐える必要があるため、和紙を3〜5層に貼りあわせた強化和紙が考案されている。

ちなみに、気象台の荒川秀俊博士らの研究によって、風船爆弾が太平洋を横断する時間は30から100時間、平均60時間と推定されていた。

資材面
風船爆弾は、割と本格的な体制のもとで計画が進められていた。
先程も登場した陸軍第九技術研究所の草場季喜少将を主任として九つの陸軍技術研究所全部が協力する体制が作られ、さらにはそれまで別個の計画を進めていた海軍も合流する。
風船爆弾15,000個の作成については、必要な施設、資材、労働力が最優先的に投入されることとなった。
参謀本部の試算によると、所要資材は鋼材1,500トン、アルミニウム300トン、水素ボンベ30,000本、食塩6,000トンが見込まれたとのこと。
鋼材だけで見ると小型駆逐艦1隻分にすぎず、参謀本部の真田作戦部長は「紙とコンニャクの塊で800トン分の爆弾を米本土に運べれば安いものだ」と評価したとか。

ふ号作戦開始
さて、1944年10月25日、大本営の大陸指二二五三号により作戦発動が命じられ、これを受けて、11月3日午前5時より風船爆弾の放流が開始される。
(本来は11月1日の開始を予定していたが、気象条件の関係で遅れた。)

ちなみに放流地点は福島県勿来(なこそ)、茨城県大津、千葉県一宮の3箇所で、気球連隊*5よりそれぞれ1個大隊が配置された。

アメリカ側の対応
放流した風船爆弾が米軍によって最初に発見されたのは1944年11月4日の夕方。南部カリフォルニア州の沿岸を航行していた米海軍の小型哨戒艇が、巨大な風船の破片を発見。
船上に引き上げ、付属の小型無線発信機に日本製を示すマークが付いていることを確認したものの、どのような目的で作成されたのかは分かりらなかった。
その10日後、オアフ島のカイルア沖で同様の風船が回収されたことから、どうも軍事目的によるものらしい、と推定する。

12月6日には、ワイオミング州サーモポリスの山中に落下し爆発、現場に15キロ爆弾の爆発で生じた弾痕が確認されたことから、風船爆弾の目的が判明する。

これに対し、連邦、州政府、防空部隊のあいだで監視網を組織することとなるが、心理的パニックをおそれて一般市民へは公表されず、報道管制が敷かれた。
(森林レンジャー等の一部民間人を除く。)

米側は、焼夷弾による西部山岳地帯の山火事発生を特に警戒していた。
「ファイアフライ計画」の名で森林消防隊を編成、対策することとなる。
また、防空部隊の戦闘機による風船撃墜体制を整備し、翌年8月の戦争終結までにのべ500機近い戦闘機が出動しているが、多くは徒労に終わった模様。米本土上空で確認された戦果はわずかに2個だったとか。
ただし、迎撃線をアリューシャン列島に前進させ、米本土到着前に撃墜する作戦も取られており、そちらではそれなりの成果が挙がった模様。

風船爆弾の戦果
この辺で、風船爆弾の戦果について見てみる。

風船爆弾の研究者であるロバート・C・ミケシュ氏によると、米本土およびその周辺で確認された風船爆弾は285個、そのうち120個は回収され、20個が撃墜されている。
爆発の記録は28件、風船爆弾と疑わしい爆発等が85件とのこと。

戦果としては、二つの小規模な山火事があった他、ワシントン州ハンフォード工場付近の配電線を切断し停電を引き起こしている。
戦果がこれだけなら笑い話になりかねないのだが、痛ましいことに民間人に人的被害が出ている。
1945年5月5日、オレゴン州にて、5人の小学生をつれてピクニックに来ていたミッチェル牧師夫妻の一行が風船爆弾に遭遇、爆発により夫人と5人の子どもたちが命を落としている。
爆発現場には後にミッチェル記念公園が作られ、慰霊碑が建立されている。

ふ号作戦の終焉
日本側の期待に反して、ほとんど戦果を挙げることはできなかった風船爆弾だが、一応、米軍側に迎撃や消防体制構築などのコストを強いることが出来たと言えなくもないかもしれない。しかし、それが日本側のコストに釣り合うものかどうかとなると…。

なお、前述した通り米側が報道管制を敷いたことから、日本側は戦果をほとんど確認できなかった。
(1944年年末に中国の新聞が米西部で怪しい山火事が生じたことを伝えており、大本営はこれを風船爆弾によるものと判断していた。これが日本が唯一確認できた風船爆弾の「戦果」だった。)
本土決戦の切迫もあったことから、これ以上あてのない「ふ号作戦」を続けることは出来ず、1945年4月中旬で放流は打ち切られる。

ちなみに、風船爆弾では、爆弾の代わりに細菌(炭疽菌やペスト等)や少数の兵士を乗せることも検討されていた模様。
米陸軍省も、細菌や化学物質、破壊工作員を送り込んでくることを懸念していた。特に細菌や化学物質が積載されていた場合の対応として、着地した風船爆弾の調査に当たって防毒マスク・防護服を着用したり、新種の植物病をチェックする対策なども準備していた模様。

最後に
兵器開発において、一見、奇妙と思えるものが検討されることはさほど珍しくない。
風船爆弾は1935年には陸軍で研究されていたが、同時期には他に無人戦車、電気砲、殺人光線なども検討されていた。

とはいえ、日本では桜花*6、回天*7、震洋*8、伏龍*9などの「決戦兵器」群がある。
これらに比べたら、上記の珍兵器など、大したインパクトとは言えないのではないか。

戦争は、それが起こった時点で政治/外交上の失策であると言えるが、特に太平洋戦争における日本の失策は極めて大きなものだった。

その失策により日本国民に多くの犠牲者が出ているが、その上で、さらに上記のような「決戦兵器」を計画するのだから、なんとも空恐ろしいものを感じる。
戦後70年が経過した今、改めて「大日本帝国が日本国民になにをしてきたか」を見直すべきなのかも知れない。
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1944年(昭和19年)11月初旬から1945年(昭和20年)3月まで放球を実施した。
約7700km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)。

日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出、放球するという方式だったそうな。

これは長距離の為に大量の燃料を消費し、燃料補給のことも考えなかっただろうし見つかる確率も高く即沈められることになっただろう。労多くして功少なしの典型で絵本の一場面を描いたようなもの。

和紙やこんにゃくノリ、爆弾、水素の製造などもただではできなかったはず。何もしないよりもましという考えからだったのか?

アメリカは国土が広く移民以降西部開拓の歴史を持ち、西に向かって戦争の歴史を持っているとも言える。

西海岸でアメリカ本土を攻撃することも行われていたようだけれど、国土の広さを掴みきれず長期戦ということまでは考えていなかったに違いない。

古代ギリシアやローマの戦争映画では纏まった多数の敵兵に対して大量の矢を放つという場面はよく出て来る。盾に守られることもあれば運悪く矢を受けて死亡するケースも多かったもの。(トロイ、300その他の映画。)

米国へ向かって多くの風船爆弾を投下するのは投下の確認はできず、しかもアメリカ本土の広さを把握できないとただの運搬具に過ぎず殆ど効果はないと見なければならない。

アイデアとしてはあり得るが実行に移すとなると被害の確認もできずめくら状態で石を投げつけることとそう変わりがない。

1家族が犠牲になった話は伝えられるがアメリカもこのような爆弾のことを事故のごとく公にはできなかった模様。病院、美術館、保育園のみに落ちたと仮定しても確認ができないのだから反感は大きいものになる。どうせやるならB-29の製造工場ならある程度時間稼ぎができそうだけれど、どれだけの被害をもたらせるものやらたかが知れている。

プロパガンダという面からいうと米国はすでに包囲されている。直ちに降参しろというビラに置き換えてこれを投下したと仮定すると遠隔の地からいかに実用から程遠く冗談に近いものかわかるというもの。

当時化学兵器を積む案もあったようだけど天皇に反対されたらしい。思ったことを行動に起こしていたら原爆に加えて細菌物兵器もばらまかれていたかもしれない。

無鉄砲に石を投げつけたり細菌をばらまくのは戦法としては卑怯とも言える。戦争での攻撃は相手側の降伏を前提に状況を見ながらあくまでも最小限の犠牲を払うのが基本のはず。

シリア難民の子供がおなかに深い傷の縫い合わせのあとがあったり、口からあわを吹き化学兵器の攻撃を受けたらしい子供の姉妹が口を通じて治療を行う写真がその悲惨さを物語っている。

当時情報が少ない中で考えていたことと戦争が終わった現在その未経験者が考えることでは考え方も違うし情報量や行動のとり方もまるで違うということも当然あり得る。

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風船爆弾のことだけに留めようと思ったが他にも戦争に対する疑問というものも出て来る。

日本本土の戦い
https://bit.ly/2PdtTzS

本土決戦、
https://bit.ly/1HlU9M9

B-29とは
http://historyjapan.org/about-b-29-superfortress
爆弾を目いっぱい積んでも片道3,000qを飛行することができた。マリアナ諸島サイパン島から東京まで約2,400q、広島市・長崎市まで約2,500qであり、マリアナ諸島を抑えられることで、本州の大部分がB-29の爆撃可能範囲内に収まった。

日本軍の代表的な爆撃機の5〜10倍の爆弾を積むことができ、この機体を大量に揃えることで、一度の空襲でより大きな効果を与えることが可能になった。

本土空襲では、数十機〜数百機の編隊で押し寄せ、大量の爆弾を各都市に降らせた。終戦までに2,000機以上が配備され、繰り返し出撃した。

日本本土を爆撃するためにB-29が最初に配備されたのは、中国四川省の成都という町だった。ここから、北九州や「製鉄の街」である八幡地区の空襲を開始した。1944(昭和19)年6月のこと。北九州地方への爆撃は9回行われた。しかし、B-29による爆撃は、大量の燃料や爆弾などの補給物資を必要とする。

西太平洋と東南アジア一帯は日本軍の勢力下であったため、成都への補給は、インド北部からヒマラヤ山脈を越えて行う必要があり、大変な労力がかかり、効率の悪いものだった。そのため、アメリカ西海岸から大平洋を船で渡り、直接補給ができるマリアナ諸島が注目された。

マリアナ諸島からの空襲は1944年11月から本格的に始まり、以降1945(昭和20)年8月に日本が降伏するまで、全国に合計で260回にわたり攻撃を行った。

延べ1万7500機が出撃し、爆弾約12万個、焼夷弾約476万個、合計16万トンを投下した。さらに、広島・長崎への原爆を投下したのも、専用に改造されたB-29だった。

この間に出撃したB29は延べ三万三千四十一機という。そして連合軍機(大半は米軍機だったが)が日本本土に投下した爆弾の量は十六万八百トンにおよぶ。このうち戦略爆撃機B29が投下した爆弾は十四万七千トンで、九一% ...



原子爆弾投下
https://bit.ly/2QNoorZ
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「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52580?page=3

太平洋戦争とは何だったのか
http://historyjapan.org/summary-air-raid-on-mainland

そして同年6月にマリアナ諸島サイパン島がアメリカ軍の手に落ちると、マリアナ諸島の各基地から出撃したB-29により、東北地方より南の日本本土が全てB-29の射程に収まるようになった。1945(昭和20)年3月10日に東京を襲った空襲(東京大空襲)をはじめとして、原爆を含めた日本側の空襲被害の大部分が、マリアナ諸島を飛び立ったB-29によるもの。

B-29は1944年11月から終戦までに、全国の主要都市113か所に延べ17,500機来襲し、爆弾11万個、焼夷弾(しょういだん)476万個以上を投下した。

さらに、1945年3月に大平洋に浮かぶ硫黄島が陥落し、そこにもアメリカ軍の飛行基地が築かれたほか、日本近海に連合国軍の空母も出撃するようになり、これにより、北海道を含め日本全土が様々な種類の連合国軍機によって空襲を受けるようになった。東京、広島、長崎、沖縄以外の都市で1,000名以上の民間人犠牲者を出した都市は以下のとおり。

大阪市(大阪府) 12,000人
神戸市(兵庫県) 8,414人
横浜市(神奈川県) 8,000人
名古屋市(愛知県) 7,858人
津市(三重県) 4,000人
鹿児島市(鹿児島県) 3,329人
浜松市(静岡県) 3,239人
豊川市(愛知県) 2,477人
富山市 (富山県) 2,275人
北九州市(福岡県) 2,251人
呉市(広島県) 2,070人
静岡市(静岡県) 2,010人
福岡市(福岡県) 2,000人
堺市(大阪府) 1,876人
岡山市(岡山県) 1,737人
徳島市(徳島県) 1,700人
福井市(福井県) 1,584人
日立市(茨城県) 1,578人
明石市(兵庫県) 1,464人
長岡市(新潟県) 1,460人
高松市(香川県) 1,359人
大牟田市(福岡県) 1,291人
和歌山市(和歌山県) 1,212人
甲府市(山梨県) 1,127人
仙台市(宮城県) 1,066人
佐世保市(長崎県) 1,030人

沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。
沖縄戦
https://bit.ly/2gSlzCv
沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数) 5万5246人
D:一般住民 3万8754人(推定)

ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人と言われる。

決号作戦
https://bit.ly/1MlR562

日本本土空襲
https://bit.ly/1EGBhEH

1944年にマリアナ諸島を喪失した頃の陸軍の総兵力はおよそ400万人ではあったが、マレー半島やビルマから、朝鮮半島や満州国までという、日本軍の影響域に広く散らばって配備されていたことから、そのうち日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、本土決戦を行うには兵力が不足していた。北海道、千島、樺太、小笠原諸島、南西諸島の本土周辺部、軍学校などのおよそ41万2千人、航空部隊、船舶部隊などの人員約45万3千人を合わせても132万1千人であり、総兵力の3分の一程度に過ぎなかった。

兵力の欠乏を補うため、満州国や北方からの部隊転用に加え、根こそぎ動員と呼ばれる大規模な部隊新設と召集を実施した。根こそぎ動員は、以下の大きく3回に分けて実施された。

1945年2月28日に臨時動員が下令された第1次兵備
4月2日と6日にかけて臨時動員が下令された第2次兵備
5月23日に動員下令された第3次兵備
これらの動員によって、一般師団40個、独立混成旅団22個など約150万人近くが動員された。日本軍は、前述の侵攻予想時期を念頭に部隊の編成を実施した。しかし、期間や物資の制限から最終的には、兵力や装備が不足していても、編成が完結したと見なす方針が取られた。そのため、これらの師団は結局中途半端な人員・装備のままで配備されていった。

また、補助的な戦力として、防衛召集により緊急時に動員する特設警備隊や地区特設警備隊も準備された。これらの部隊の装備状況は根こそぎ動員部隊に比べてもさらに悪かった。

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アメリカ1860年以降の歴史

1860年にエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた後、その年遅くから1861年前半に掛けて、南部の11州がアメリカ合衆国からの脱退を宣言し、2月9日にはアメリカ連合国政府を樹立した。南軍のP・G・T・ボーリガード将軍がサウスカロライナ州にある北軍の基地サムター砦の部隊を砲撃したときに、南北戦争が始まった。

北部州(北軍)が、主に田園の農業地帯である南部州(南軍)を最終的に破ったが、双方共に60万人から70万人が殺され、南部の土地の大半は荒廃した。1860年の国勢調査に基づけば、この戦争で13歳から43歳までの白人男性の8%が死に、その比率は北部では6%だったが、南部では18%にも達した[1]。最後は奴隷制が廃止され、アメリカ合衆国は一つに戻った。

1840年代と1850年代は第一次の大量移民の波が起こった。この時代は古い型の移民の時代とも呼ばれ、420万人の移民がアメリカ合衆国に到着して、総人口は2,000万人にもなった。

第二次世界大戦と世界恐慌の終焉
第二次世界大戦に参戦し、アメリカ合衆国の歴史上最大の増加率となった軍事歳出の増大により、国内経済は恐慌から完全に回復した。失業率は1940年の14.6%から1943年の1.9%まで減少し、労働力としては1,000万人が増えた。

アメリカ合衆国における外国の戦争に関する孤立主義は退潮したが、当初は参戦することを拒み、イギリス、中国およびソビエト連邦に武器貸与法を通じて物資や武器を供給することに限定していた。

これが日本による真珠湾の急襲で劇的に変化した。アメリカは日本、イタリアおよびナチス・ドイツに対する戦争に熱狂的に突入した。

1943年にイタリアが降伏し、1945年にドイツと日本が降伏した。大量の工業生産に賃金と価格の統制が伴ったことで、経済規模は2倍にも3倍にもなった。

1.600万人が出征し(大半は徴兵だった)、30万人の女性の従軍志願者もいた。アメリカ海軍は何度か日本軍に敗れた後、1942年のミッドウェー海戦で戦局を一変させ、厳然と日本の軍事力の全的破壊に向かった。

1942年に北アフリカ、1943年にイタリアに小規模な侵略を行った後、ドイツ空軍を破壊する戦略爆撃作戦を展開し、その後の1944年に大規模なフランス侵攻を行った。
1945年5月にはアメリカ軍が東からドイツに侵攻したソ連軍と落ち合った。

アメリカ合衆国は全国が巨大な戦争マシーンになり、アメリカ合衆国がそれまで戦った紛争を遙かに超える程度まで社会を変えた。

1940年代のニューヨーク カラー写真
https://netasite.net/archives/23351094.html
バックトゥーフォーティーズアメリカ。1940年代のアメリカの高画質なカラー写真特集
http://karapaia.com/archives/52095065.html
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1944年にマリアナ諸島を喪失した頃、日本陸軍の総兵力はおよそ400万人であったが、そのうち、日本本土にあったのは、東部、中部、西部の各軍を合わせても約45万6千人で、総兵力のわずか11%に過ぎず、防衛戦を行うには兵力が不足していた。

アジア各地における日本軍の終戦時の兵数
https://honkawa2.sakura.ne.jp/8050.html

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金属供出
https://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/hondo-kinzoku.htm金属類回収令
金属類回収令
https://bit.ly/2U2GB34

資源の少ない日本ぐらいかと思っていたらアメリカやイギリスでも行われていた模様。

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本土防衛計画
1944年1月ごろから大本営の転進計画(松代大本営)が秘密裏に進められた。 1944年7月20日、参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、九十九里浜や鹿島灘、八戸に陣地構築を命じた。

また、関東防衛のための大本営直属部隊として第36軍が編成された。 1944年7月24日、大本営は『陸海軍爾後ノ作戦大綱』を定し、フィリピン、千島列島、本土、台湾の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた(捷号作戦)。

その約1カ月後にフィリピンに米軍が侵攻。これに対し大本営はフィリピンを死守すべく捷一号作戦を発動したが、逆にレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅する大敗を喫し、日本は海上作戦能力を事実上喪失した。

その結果をうけ、大本営は本格的に本土防衛計画に迫られることになった。連合国軍の本土上陸侵攻を遅延させ、その間に本土の作戦準備態勢を確立するための『帝國陸海軍作戦計画大網』を1945年1月20日に定め、陸上防衛戦への準備が進められていくことになる。

この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。

1945年4月8日、大本営は、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたることと、『決号作戦準備要綱』を示達し、一連の防衛計画を正式な作戦名「決号作戦」とした。以降の大本営の構想は、部隊の後退、持久を認めない旨を各部隊に通達し、一億玉砕の思想にとらわれていくことになる。

日本軍は、連合国軍が本土に侵攻してくる時期を1945年秋と予測していた。当時の敵情分析をした書類には、

わが本土攻略開始時期、方面及び規模などはなお予断を許さないが、わが、空海武力の打倒、空海基地の推進、日満支の生産及び交通の徹底的に破壊などにより戦争遂行能力の打倒し、大陸と本土との兵力機動を遮断し、そのうえ、十分な陸兵を集中指向を整えたのち、決行するのが至当な順序であろう。その時期は今後の情況により変化するが、本年秋以降は特に警戒を要するものと思考する
— 戦史叢書『本土決戦準備関東防衛』防衛庁防衛研修所戦史室著、朝雲新聞社刊
とされており、連合国軍の日本本土侵攻のスケジュールとほぼ一致していた。


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国内における兵力は40万人ぐらい? 国内における死亡をゼロ近くにする方法を考えつかなかったとというかとるべき道が無かったか。

神風特攻隊もイスラムでいうジハードもどこかで通じていると見える。人間爆弾と同じ考え方のようで時代が時代だけに志願者も多いとされるが、自殺願望もないのだから目的を果たして全員帰還できるような方策はなかったのか?

誤報がもとでフィリッピンで零戦を始め80機を撃破されたのがきっかけにもとれる。
命中確立が高ければ高度からの艦橋(ブリッジ)への爆弾降下も効果があったのではないかとも思われるが、瞬時の移動になるのでそこまでの技術は難しいかも知れない。

海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた模様。

日本軍は沖縄戦の3ヶ月間で特攻機1,895機、通常作戦機1,112機。沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。

特攻が開始された1944年10月以降の、アメリカ海軍兵士の直接の戦闘による戦死者だけでも下記の通りとなる。

戦域 戦死者 負傷により後日死亡 小計
フィリピン戦域4,026名 270名 4,296名
硫黄島戦域 934名 48名 982名
九州沖戦域 963名 6名 969名
沖縄戦域 3,809名 219名 4,028名
1945年7月以降日本近海戦域 1,103名 14名 1,117名
合計 10,835名 557名 11,392名

特攻隊が飛び立った地
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11146434851

神風特攻隊と自爆テロはちがうという主張について
https://ysugie.com/archives/5041
神風特別攻撃隊
https://bit.ly/2kJAsZV

鉄の供出も行われ戦艦大和やそれ以上の規模のものを作ろうとしていたらしいが、大砲の弾の径がいかに大きかろうと鉄板の厚さなど知れているのでアメリカ側の立場に立てば艦に穴をあければ簡単に沈没させることはできると考えていたかも知れないしその通りになった。

人を運搬するのにこんな規模の戦艦が必要だったのか疑問だし、残りの鉄材や爆弾を有効に使う方策はなかったのか。地勢は違うがベトコンならどう戦ったか。

日本は島国で主だった都市は海岸添いに位置し、地政学的に海岸側から攻めやすいと言われている。

上空に戦闘機などが飛来すれば自動的に一定範囲内でこれを捉えてレーザー光線とかパルス線を発して撃ち落とす無人装置の開発とか、それに要する電源装置の開発も必要であったかもしれない。

独自の手掘りの防空壕は危険な為殆ど役目を果たさなかった話もある。

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アメリカ本土空襲
https://bit.ly/2Pb9GKN

ドーリットル空襲
https://bit.ly/1bYAqFi

カーチス・ルメイ
https://bit.ly/2myZ2Oz

ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者も居る。

当時、日本社会党、原水爆禁止団体、被爆者などから国民感情として納得できないという声が上がった。国会でも叙勲に対し疑問視する声があった。
東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答える。

小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査でも当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」と説明している。佐藤もそれらを理由に決定を変える意思はないと表明した。ルメイは12月7日に防衛庁で小泉を訪問予定であったが、当日は事務次官三輪良雄が代理で面会している。

勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例であるが、昭和天皇は親授しなかった。後年『NHK特集 東京大空襲』(1978年3月9日 初回放送)でのNHKの取材で戦争責任についての問いにルメイはその勲章を見せた。

勲一等の授与はアメリカ側の要請だったのか、敵ながら天晴れということか?戦後日本は戦争に反対ではなかったのか?

東京空襲 一般人も空爆対象 米国軍人 旭日勲章受章
https://bit.ly/2NtJicC

この目で大空襲の焼跡を
https://bit.ly/33XxJjU

画像検索 地下街 空襲で破壊されるのか
https://bit.ly/33RHyjc
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http://www.asiapress.org/apn/2016/10/japan/air-raid-experience/
◆中小都市の空襲、体験者語る

初日は、全国連絡会議の工藤洋三事務局長が「米軍資料から見た日本本土空襲と仙台」と題して講演。工藤さんは、焼夷弾を使った空襲の目的について、「単に建物を焼き払うということではなく、市街地に制御不能な大火を発生させることだった」と述べ、「米軍は日本の都市を調べ、それぞれの都市の燃えやすいところを指標とした『焼夷区画』を設定して いた」と語った。

1945年3月に始まった大都市空襲で東京や大阪などが壊滅状態になると、6月中旬から攻撃対象は中小都市へ広がる。仙台への空襲は45年7月10日。堺、岐阜、和歌山とともに、7回目の中小都市空襲として行われた。

123機のB29爆撃機が次々に焼夷弾を投下し、犠牲者は1064人を数える。仙台市街地の27パーセントが焼失されたが、同じ日に空襲した堺44パーセント、和歌山52.5パーセント、岐阜74パーセントに比べて低かったため、米軍は仙台への再空襲を計画していたという。

16歳の時に仙台空襲を体験した伊達忠敏さん(87)は、阿鼻叫喚の中を逃げまどった体験を語った。「焼夷弾が降ってきて身を伏せた時、左足に電気のしびれのようなものを感じるとともに、頭から油の固まりのようなものをかぶった。左足に触れると、鉄片が突き刺さっていた。起き上がって歩こうとしてつまずき倒れた。よく見ると、女性の死体だった。私の2メートルほど先で焼夷弾の直撃を受けたらしく、首がなくなっていた。私がかぶった油のようなものは、彼女の血と焼夷弾の油脂だった」

◆防空壕の安全神話、すでに崩れていた可能性も

最終日の翌28日は、「防空壕と防空政策」について、全国各地の団体や研究者から報告があった。八王子市史編集専門部会の斎藤勉さんは、45年8月1、2日の「第13回中小都市空襲」 で八王子、富山、長岡、水戸の4都市に627機のB29が来襲し、5127トンの焼夷弾を投下したことに触れ、「当時、人口7万7000人の八王子で犠牲者は445人だったのに対し、人口7万4000人の長岡で1476人。

人口17万人だった富山では2704人。人口に対する死没者の比率は、八王子が0.57に対して、 長岡が1.98、富山が1.6」と報告し、「東京大空襲のあと、八王子には多くの罹災者が避難してきた。市民は避難者から『防空壕は役に立たない』と聞いたらしく、防空壕に入れば安全という『防空壕神話』はなかったのでは」と語った。

「富山大空襲を語り継ぐ会」の和田雄二郎さんも「犠牲者の半分のうち、6、7割が防空壕で亡くなった」と述べたあと、こう主張した。

「当時の日本政府と軍部は、空襲時であっても『退去禁止』『初期消火』を義務づけ、さらには『防空壕を作れ、防空壕に入れ』などと命じた。市街地全体が火の海になった中では、初期消火もどんな防空壕も何の役にも立たなかった。お上の言うがままに防空壕の安全を信じ、そこに入ったために命を失った市民が多くいたことは明らかだ」。

戦争について質問です。 防空壕の効果って
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1372438403

防空壕は民間に任したのでは危険極まりない。それなりの重機を使ってアーチ状の分厚い鉄筋コンクリート製のトンネルと何重もの鉄の扉をつけ、地下深くか岩場の奥深くスペースを設けて水や食糧を保存し、通気口も完備しなければならなかったと思われるが、人数が40万人ぐらいでは無理であったのかもしれない。本土を戦闘機が襲うと気付いた時に準備を行ってくべきかも知れない。

防空壕
https://bit.ly/3417LvE
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太平洋戦争 秘密兵器大全
「富嶽」
日本がアメリカのB29より大型の爆撃機を作る計画があった。

「信濃」
戦艦大和を凌駕する戦艦「信濃」。

「100トン戦車」
日本陸軍が主力としていた三十八式戦車は防御も攻撃力も経連合軍の戦車と比べても貧弱であった。しかし水面下では昭和14年ノモンハン事件をキッカケに戦車の強化が計画された。それが陸の大戦艦「100トン戦車」だ。

「列車砲」
日本陸軍には列車に大型砲を積んだ列車砲というのがあった。

「震電」
プロペラが後ろに付いた戦闘機をご存知ですか?
実践に間に合いませんでしたが時速750キロ、30ミリ機銃4挺を装備。B29要撃用に開発された戦闘機です。

【衝撃】日本の技術力は凄かった!旧日本軍のバケモノ兵器8選
https://youtu.be/lK21YC02BkM

宝島SUGOI文庫
太平洋戦争 秘密兵器大全
https://tkj.jp/book/?cd=70971901

参考 日本陸軍陸戦兵器
https://youtu.be/sHaNx0e30D4

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日本軍の人命軽視〜重傷病者には「自決」を要求

ガダルカナルの日本軍のマラリア被害については、「明らかに日本軍の全員が島への上陸後4~6週間以内にマラリアで苦しみ……非常に悪性だった結果、死亡率は例外的にすさまじいものとなり、作戦終了までに部隊全体の四分の一を超えたかもしれない」と見積もられた。

食料は極度に不足していてヤシ、草、野生の芋、シダ、タケノコ、そしてワニやトカゲまでもが非常糧食として食べられた。

マラリア以外にも食糧不足による脚気、腸炎が多発して日本軍に大損害をもたらした。
負傷した将兵も「適切な治療施設がなく、常に包帯に雨が染みこみ、マラリア、脚気、腸炎のような悪疫が流行していたため、傷兵の死亡率は80パーセントを超えていたはずである。ガダルカナルから後送された傷兵の数は少なく、傷兵の大多数は死んだとみるのが妥当である」とされている。

おそらく、ガダルカナルで死んだ日本兵のうち、三分の二は病気で死んだ。戦闘で死んだとみられる日本兵の数は1万を超えず、実数はもっと少ないはずである。

ガダルカナルで我が軍と対峙した4万2000の日本軍のうち四分の一以下が戦死・戦傷死し、四分の一以下が撤退し、残りの半分以上─2万以上は病気と飢餓で死んだ。対照的に米軍の死者・行方不明者は1500以下であった。

実際の犠牲者数は、ガ島の日本軍総兵力3万1400名中2万800名が「戦闘損耗」、その内訳は「純戦死」5000~6000名、「戦病に斃れた」者1万5000名前後、とされている。

一方米軍の戦死は約1000名であった(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉ガダルカナル・ブナ作戦』1969年)。米軍側は日本軍の総兵力こそ過大視したものの、死因の割合についてはそれなりに正確に算定していた。

このように、ガ島の戦いは、「決定的であったか否かは別としても、医療の要素が米軍のはるかに犠牲の少ない勝利に貢献した」のであった。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/44638?page=3

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南方ソロモンに於て糧秣(りょうまつ)が絶え、私達はトカゲ、セミ、ムカデ、クモ、コホロギ等何でも食べるようになった。又、大きいものではワニやナマケモノ等を食べた。

このジャングル内には多くの蚊が棲息しており夜昼となく刺される。特に蚊の一種に「ハマダラ蚊」というのがいてこれに刺されると必ずマラリヤ病に犯され、四十度前后の熱が三日も四日も続く。
https://www.huffingtonpost.jp/2015/08/18/minakami-note_n_8002476.html

第一次世界大戦中のイギリスの兵士は戦場で何を食べていたのか?
https://kaikore.blogspot.com/2017/03/bbcww1-uncut-soldiers-food.html
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第2次世界大戦(日本にとってはアジア太平洋戦争)において、
日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。

敗戦直後の1945年9月、東久邇内閣が発表した陸海軍人の戦没者数は50万7,000人にすぎなかったが、調査がすすむとともにその数が増えつづけ、
1977年に厚生省が明らかにした数字では、「軍人・軍属・准軍属」の戦没者230万人、外地での戦没、一般邦人30万人、内地での戦災死者50万人、計310万人となっている。
この戦争における日本軍の戦闘状況の特徴は、補給の途絶、現地で採取できる食物の
不足から、膨大な不完全飢餓を発生させたことである。そして完全飢餓によって起こる
餓死だけでなく、不完全飢餓による栄養失調のために体力を消耗して病気にたいする
抵抗力をなくし、マラリア、アメーバ赤痢、デング熱その他による多数の病死者を出した。
悲惨な死を強いられた若者たちの無念さを思い、大量餓死をもたらした日本軍の責任と
特質を明らかにして、そのことを歴史に残したい。

日本軍人の戦没者230万人の内訳は、
戦死よりもはるかに病死が多いのである。これは衛生、給養上の大問題であり、戦争衛生史ならば第一にとり上げて、その原因を分析すべき事態なのである。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/PacificWar.html

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インパール作戦
かつてビルマと呼ばれていた、インドシナ半島西に位置するミャンマー。1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。

「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。

生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の日誌)
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170922/index.html

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000&seg_number=001

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第二次世界大戦の犠牲者
https://bit.ly/234QQSt

兵力を集中すべき地域だったのか、ジャングルなら食糧をどう供給するのか、医療体制は放置しておくのか?地図の上の話だから行ってみないとわからない、実際に遭遇や体験してみないとわからないという状況は今もそう変わらない。

評論家動画では某国は終わった終わったと毎回繰り返しているが、それらの国も対策を立てて常に実行しているのであり、情報量の違いによることもありかえって実情は予想以上に良いと思われることも多い。

国民の人命尊重、節約志向と人材の有効活用 、大本営の想像力や未来予測、計画性や効率性、順序、倫理観と正当性、時間の大切さなど疑問も多い。

米国本土上陸も考えていたようで本土空襲では小型水上偵察機に焼夷弾を2個程積んで山林に投下したとされるが、自然消火に終わったものもあったとされる。

これでは無謀で情報の量や幅によって思い込みの部分が自ら危険に陥れることも多いという感じもする。今日のところはこのぐらいにしといたると言ったかどうかは定かでない。
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戦艦大和

戦艦大和の建造目的は多くの兵隊や資材を運搬するためだったのか?鉄の供出も行われるような中、軍艦の船体の厚みは十分にあったのだろうか?魚雷で風穴を開けられれば一巻の終わりになるはずとか一般的には考えられるが。

方針は1936(昭和11)年まで3回改定されているが海軍の仮想敵は当初から米国だった。

ワシントン軍縮条約で主力艦の戦力を米国の60%に制限されていた日本は、条約を破棄しても、その差をすぐに埋められるだけの国力はなく条約が失効すれば、米国も軍艦の建造を増強することは明らかだった。

当時の海軍は米国との決戦で戸高館長は「マリアナ諸島から小笠原諸島に至る防衛ラインを敷いて、そこで敵の艦隊を迎え撃つというのが基本的な考え方、専守防衛とも言ってもいいものだったと分析する。

防衛ラインで敵艦隊を撃滅し、その後、講和に持ち込む―というのが日本海軍の抱いていた戦争計画のイメージで、要するに相手に先制パンチを浴びせて戦意喪失に追い込む一発勝負の発想しかなかった。

大国を相手に宣戦布告すれば、総力戦、長期消耗戦にならざるを得ないことは、知識として知ってはいたにしても、十分理解していなかった。

たった一度しかない決戦のチャンスで確実に勝つためには、他国の艦隊を一撃で撃破できる大型の主砲と敵艦隊に先んじることのできる機動性が必須。このため、大和の設計に当たっては、他国の主力艦を凌駕(りょうが)する巨砲と高速力が何よりも求められた。

「短期決戦」型戦艦を示すスペック【次ページ】

https://www.jiji.com/jc/v4?id=201907yamatokenzou0001
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p16.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/yamato/sub_yamato.html
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66045

日本海軍はなぜ大和を建造したのか
https://www.jiji.com/jc/v4?id=201907yamatokenzou0001
世界最大の戦艦を完成できた理由は
https://www.jiji.com/sp/v4?id=201907yamatokenzou0003

戦艦大和の船体の鉄板の厚さは何センチ
船体の最も厚い部分は40センチで、装甲板が貼られています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q127731237


--------------------------------------------------------------------------日本陸軍の本土防空に対する考えとその防空作戦の結末

http://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/06.pdf

東京大空襲に代表される米国の日本本土爆撃は日本に多大の損害を与えた1。

家永三郎は「米・英との開戦を決断した権力者たちは、確実な勝算がないのに開戦を決行したのであり、敗戦となれば本土空襲を受けて惨憺たる状況を呈するであろうことを当然予見できたはず」であると主張している2。

他方、栗田尚弥は、1944年には、軍防空、民防空の強化充実が図られ「東京航空要塞」が成立したという意味のことを述べている3。

第1次世界大戦終了直後の1921年に、フランス人マルセル・ジョノー(Marcel
Jauneaud)陸軍少佐が航空戦術を指導するため来日した。彼は、国土防空について平時か
ら多大の注意を払って計画するべきであり、そのため国土防空機関を設け、防空用の飛行場、高射砲台、阻塞気球、監視哨網等の設定ならびに昼間及び夜間戦闘機隊と高射砲隊をその指揮下に入れることを説いた10。

ジョノー少佐は戦略爆撃について、開戦時に相手国の重要な工業中心地ならびに都
市を爆撃によって破壊することは、効果が大きいものと認め、なかでも都市の爆撃実施を強調していた。さらに東アジアの建造物は石材、鉄材を使うものが少ないことから、大都市でも100機の遠距離爆撃機をもって全滅可能であるとした11。

高射砲運用術の導入についても、21年にフランスからリュカー(スペル不明)大尉 1
人を招いて8週間にわたり講習を行ったのみであった16。航空機関係では、陸軍が第 1 次世界大戦終了直後の19年にフランスからジャック・P・フォール(Jack P. Faure)大佐を長とする総計57名の「仏国航空団」を招き、1年3ヶ月にわたり操縦術のみならず戦術、航空制度、編成、運用等まで学んだこととは大きな違いであった17。
さらにこのミッションのあとにも、航空機の運用等に関する外国人の招聘は、細々ながら30年頃まで続いたのと対照的であった18。

陸軍は防空に関して熱心に取組まなかった。この背景には、当時(1920 年代)日本の近隣諸国が大きな空軍力を持っていなかったこと、および当時の航空機の性能がまだ貧弱で大きな脅威ではなかったことが挙げられる20。

その後陸軍航空の発展とともに、航空の運用法に関する教範類が制定等された。24年「飛行隊教練假規定」および同付録の「航空兵偵察及戰鬪ニ關スル原則」、28年「統帥綱領」改定に伴う「航空用法」の追加、29年「戦闘綱要」中の「航空用法」、34 年「航空兵操典」37年「航空部隊用法」と多数が定められたが、いずれの中にも国土防空に関する事項は含まれていなかった21。

ようやく40年「航空作戦綱要」のなかで要地防空として国土防空に関する指針が定められた。その中で要地防空のためには、情報、通信および飛行場を完備し速やかに敵の企図を判断し、機を失せず対応処置を講ずることを要求している。

また要地は敵の夜間爆撃を受けることが多いので、高射部隊に任せるだけなく、防空戦闘部隊も夜間戦闘に加わり、防空を完璧にすることを求めている22。しかし同年にはすでに英国がレーダーを用い地上からの管制による体系的な迎撃体制を整備していたのに対し23、日本においては国土防空について、ようやく緒についたところであった。

あるいは来航する敵航空母艦を撃沈することを最初に掲げた。
しかし「攻勢防空」の成功のみに防空を期待することは危険であり、最低限開戦初期に来襲する敵機に対処しうる要地直接防空のための戦闘機と地上部隊が必要であると続けた26。

36年の陸軍中央部の本土空襲判断は、目標は東京、関門、北九州、大阪、名古屋等、来襲機数について数機から数十機の編隊群でそのうち 1〜5 割が対空防御を突破して目標に到達すること。都市爆撃に当たっては、大量の焼夷弾を投下し同時多数の火災を発生させるとともに、ガス弾の使用も考えられていた30。

このような極東ソ連軍による直接の脅威と、満州事変後に軍事費増額が認められたため、国土防空もわずかながら増強が行われた31。

わずかとはいえ防空に対する増強があったが、それでも陸軍内の防空に対する意欲はそ
れほど高くなかった。その例は当時の陸軍大学の教程に見られる。35年阪口芳太郎中佐は「航空参謀要務講授録」の中で、防空の要訣は敵飛行根拠地を覆滅してその禍根を根本的に絶滅することであり、防空戦闘機や高射砲などの消極的防空機関に国費をあてるより全て攻勢的兵力に使用しそれで防空目的を達成すべきであるとした33。極端な「攻勢防空」偏重であった。

長岡は、1923年関東大震災直後の東京で『飛行機と帝都復興』というパンフレット
を配った。この中でも長岡は、東京が 3 回の焼夷弾、毒ガス・細菌兵器、大型爆弾による空襲で重要施設、ライフラインを破壊され、一昼夜で焦土と化すとした。

そして飛行機は探知し難く防空戦闘隊に万全の守りを期待できない以上、この復興の際に東京を耐火、不燃にして耐弾性をもたせなければいけないと訴えた39。さらに長岡は、27年に『日本を攻擊せんとする敵は先ず大阪を空襲するであらう』、29 年に『嗚呼!名古屋の潰滅』というパンフレットを各々の都市で配布した。これらも東京で配布したものと同様、開戦初日の空襲で両都市が壊滅し、市民の 8、9割が死亡し、日本がすぐに降伏するという内容であった40。

1931 年には、陸軍航空本部第二班による編集で、『最新世界航空大觀』が出版された。
この中で、航空機の速度、搭載量、航続性能が急速に向上し、さらに通常の爆弾の代わりに毒ガス弾を使えば二、三百機の爆撃機であらゆるものを死滅でき、焼夷弾を使えば日本の都市であれば二、三十機で焦土と化すことができるとした43。

また遠距離爆撃機に対する防空に関しては、日本の都市構造が極めて脆弱なこと、少数
のガス弾攻撃を受けても都市全体に著しい恐慌をきたすであろうこと、そして現今の日本の防空機関の能力をもってしては、敵爆撃機を全部撃墜することはできず、少数機は必ず防空網を突破するであろうと警告した44。

防空の中で都市そのものを空襲被害が減少するように建設することを挙げている。例として、建築物は耐震耐火構造であること、家屋と道路の間隔は家屋の高さ以上離すこと(隣接する家屋との間隔も同じ)などを基準として示した。しかし本書では、これらの実行が非常に難しく、国家全般にわたる政策として当局の計画と指導に待つ外はない、としている45。

34年には陸軍省軍事調査部から『空の國防』というパンフレットが発刊されている。こ
れには、長岡のように日本の都市が悲惨な被害を受ける描写はない。しかし列強諸国が、開戦劈頭に強大な航空兵力をもって相手国の軍事、経済の根拠地を急襲し、国力の中枢を撃滅して勝敗を一気に決しようとする思想がみなぎっていること、ならびに日本はウラジオストク、フィリッピンから爆撃機の行動半径の圏内にあることから、日本の都市が空襲に対して脆弱であり、防御手段のみによっては敵機の侵入を完全に防ぎきれないと述べた。
そして防空の最良手段は、敵に勝る空軍を持ち敵の機先を制して、こちらから攻撃して敵37年に日中戦争が始まり防空法が施行された。その翌年に出版された『防空大鑑』は、グラビアも含めると総ページ数約 950 ページの大著で、本文は衣笠公寛陸軍航空中佐、中島武海軍少佐および日本の民間航空機の草分け奈良原三次の三人が執筆した。

本書は全編が防空のことを述べているのではなく、航空の歴史や世界各国の軍事航空ならびに民間航空についても相当の分量を割いている。それでも 300ページ以上が国土防空にあてられ、上は日本全土にわたる軍防空から、下は町内会、各家庭の防空における実施事項までを網羅している。本書においても防空は「攻勢防空」が第一義としているが、いかに優勢な空軍を保持していても防空を閑却してはならない、として防空のほとんどのページを「直接防空」と「消極的防空」の説明にあてている47。

1941年1月には、軍によるものでないが、近衛文麿内閣の東條英機陸軍大臣、及川古
志郎海軍大臣および平沼騏一郎内務大臣が連名で「國土防空強化ニ關スル件」を提案し、
それが閣議決定された。この中で、日本の防空態勢の現状は不備欠陥がすこぶる多く、都市の空襲に対する脆弱性が大きいことを認識していた。その対策として、監視通信網の拡大強化、重要都市の防火施設の整備ならびに主要施設の防護、重要都市の現状以上の膨張抑制、等が決定された48。このことは、国の最高の行政機関が防空のかかえる欠陥を認め、それに対する施策を決定したという点で大きな意味を持つものだ。

日米関係がいよいよ緊張してきた同年8月には、東部軍司令部防空参謀の難波三十四中
佐が、主要新聞紙上で「防空必勝の栞」等を発表した。難波中佐は、日本が戦争に突入すれば必ず空襲を受けること、しかし決して空襲を恐れるべきものではないことを述べた。

また空襲規模の予測として、日本の場合 1 回の空襲で 80 人程度の死傷者であり、大なる被害はないこと、投下弾も主として焼夷弾を使用することが常識であるとした。そして国民に対して、決して持ち場を離れず、隣組内に落ちた焼夷弾は全部自分で消し止める決意と準備が必要である、という意味のことを説いた49。
これら活字による啓蒙活動の他、民間も含めた防空演習が多数行われ、民防空の準備は、一般市民による消防・救護等の訓練を中心に、かなり熱心に行われた。28 年の大阪での防空演習実施を皮切りに、毎年実施回数も規模も拡大を続け、36 年には 34 道府県で延べ 43

太平洋戦争に突入の 41 年 12 月 8 日に、参謀本部は関係部隊等へ防空実施を発令した。
しかし米英の日本本土に対する報復爆撃は皆無であり、参謀本部の防空担当者は、「民防空態勢については、開戦時不十分であったから開戦となれば国民は一致団結してその強化に邁進するであろう思っていたが、緒戦の華々しい勝利のために、官民は防空に耳をかさないように思われた。」と回想している55

し対策の主軸となったのは「攻勢防空」であった。中国大陸への米軍機の着陸を防
ぐため、大本営は支那派遣軍へ浙江省方面の中国主要航空根拠地の覆滅を命じた。また海軍のミッドウェー作戦に際し、ミッドウェー島など占領のために当初予定していなかった陸軍部隊投入をこの空襲の後に決定したことも、敵根拠地封殺のための「攻勢防空」の表れだろう56。

翌43年初頭に防衛総司令部大坪義勢陸軍中佐は「大東亞戰爭と防空」という題で防空
の現状について平易な文で解説した。まず米国が航空母艦の増強に励んでおり、またドーリットル空襲のような爆撃の可能性があること、米国は新たな大型爆撃機を製作中であり、本土空襲が遠くない将来にありうることを述べた。

続いて日本の軍官民共に軍防空に過剰に期待しており、それが民防空の根本対策が進まない原因であるとした。ついで民防空については、根本的事項として国土計画ができていないこと、その原因として国土における施設が防空的な着意がなく、全く無統制かつ自由にゆだねられていた結果であると観察している。その原因について大坪は、防空思想の統一がないことであり、この解決のためには、陸軍で防空思想の普及徹底統一を図り、ついでこれを民間に普及しなければならない
と述べている。しかし防空思想とは何か、については述べられていない57。

軍防空には、レーダーを用いた監視が絶対に必要であり、また通信についても組織と能力を完備しなければ防空が成り立たないことを述べている。また防空戦闘機には、性能優秀な新型機で大口径機関砲の装備が必要であること、夜間戦闘は困難な夜間訓練を必要とするので、昼間戦闘機部隊と夜間専任戦闘機部隊を区別し訓練を重ねることが必要であると説いた58。しかしこの意見は結局ほとんど実現しなかった。

米軍の日本空襲について、B-29 の使用を予想し、その能力を爆弾搭載量約4トン、航続距離約8千キロメートルと推測した。その要領については、44年中に東京その他重要都市等に百機内外、状況によっては数百機をまとめて来襲することもあると予測した。
来襲時期は昼夜を問わないが、夜間が多くなり、来襲高度については、昼間が8千〜1万メートル、夜間は3〜5千メートル、投下弾種については焼夷弾が主体になると予測した60。
稲留は43年6,7月に行われた帝都防空研究演習について、B-17, B-25 あわせて 110
機来襲、投下弾量175トンの想定のもとでは、火災発生箇所609 に対し消防ポンプ配置箇
所411で、残り198箇所は放任火災となる結果が出たと述べた。この結果から、火災発生
箇所が関東大震災のそれをはるかに上回って東京が焼け野原になることを予測し、百万人単位の疎開を行い、それによって防火帯を設け大火災を防ぐ必要があることを述べた61。

45年3月に米軍の B-29 部隊は、それまでの高高度精密爆撃から戦術を変更して、新た
に膠化ガソリンを使用して開発された焼夷弾により、日本の主要都市に大規模な夜間低高度焼夷弾爆撃を行った。3月10日から19日までの間に東京、大阪、名古屋、神戸が大き
な被害を受けた。

まず投下弾種に注目すると、ベルリンは、ほぼ半分が焼夷弾で残りは高性能爆弾、破片
爆弾等である。それに対し日本の大都市への弾種は、97パーセントまでが焼夷弾である。
明らかに攻撃側が、目標の都市構造に応じた弾種の選択をしたことがうかがえる。英空軍はベルリンに3万4千トンの爆弾を投下したが、損害の多さから作戦を中止した。米軍は6回約1万トンの爆撃で東京を焼尽地区として、それ以降爆撃しなかった。
ベルリンと東京で爆弾トン当たりの死者行方不明者数を比較すると、おのおの 0.3 人/トン、8.5 人/トンで約 28 倍もの差がある。爆弾トン当たりの破壊棟数については、ベルリンのそれが今回参考とした資料には、特に被害が大きかった空襲の分しか載っていなかった。その最大値と東京の平均値を比較すると、ベルリン 4.44 棟/トンに対し東京 67.2棟/トンで約 15 倍、最大値同士を比較すると東京 191 棟/トンで約 43 倍もの差がある。
これらは、日本の都市構造の燃え易さと、ベルリンが蜂の巣のように防火区画で区切られた燃えにくさを表している67

爆撃機の損失率を見るとベルリンの 6.6 パーセントに対し、日本主要都市全体で1.9パーセント、東京空襲の数値は 3.3 パーセントである。
マリアナ諸島から日本本土を爆撃・機雷投下のため出撃した B-29 の損失をみると、昼間は、11,826 回の出撃に対し、損失数は179機で損失率は 1.5 パーセントであるのに、夜間は 14,596 回の出撃に対し損失数は138機で損失率は 0.95 パーセントであった。夜間の損失率は昼間の三分の二だった69。

軍防空が整わな
かったことの原因は、国力の乏しい日本が攻撃にも防御にも十分な兵力をもつことが困難だったこと、さらには国力を無視した英米との戦いを始めたことだろう。また乏しい国力によって、戦略としては短期決戦、攻勢作戦が基本となり、またそれが攻撃精神と攻撃行動を極端に重視することになった76。この攻撃行動の重視が「攻勢防空」への偏重となり、「直接防空」の軽視になっているのではないか77。

東京については、関東大震災後の復興で不燃化を行う機会があった。また前述のように、長岡、後藤はそれを訴えあるいは計画していた。
もちろん 1923 年当時、20 年後には日本が世界大戦に参戦して激しい本土爆撃を受ける可能性があるとだれも思わなかっただろう。しかしまだ空襲の存在しない15世紀ドイツで都市の木造建築を厳禁にしたこと、および17世紀のロンドン大火の後にも可燃建造物を厳禁したこと80を思うと、20世紀の日本政治の限界を感じるのである。
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