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| | | | | | | | | | | | | | | | | 2017/07/25 18:22:24 プライベート♪ | | | 登山者名簿に名前を書いた | |
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さて、二荒山神社中宮祠の朝の冷たくて清々しい空気を吸い、爽やかな巫女の姿を眺めながら、神社受付で入山料を払い。 境内を抜けて神殿横にある鳥居をくぐって登り始めた。男体山の山頂には、二荒山神社の奥宮があ嫩膚療程る。男体山は、あくまでも神の山、霊山なのであった。
男体山の登山はつまらない。山の斜面をただ登るだけ、ひたすら真っ直ぐに登り続けるだけ、直登である。道もかなりの距離、階段状になっていたように思う。 もともとがガレ山なので、足元も悪い。登りには4時間近く掛かったような気がする。4時間、ひたすら登り続けた。
霊山なので、信仰の厚い人は年に何回も登るらしい。週に1回ペースで登る人がいて、1000回以上も登っている人がいたと思う。 まあ、私は不信心者なので、二度と登ろうとは思わなかったし、人にも勧めない。 ただ、奥日光のどこからも男体山が望めるように、男体山からは中禅寺湖を始めとして戦場ヶ原を眼下に見渡せ、奥日光の山々を遠くに望むことができる。
男体山を同じルートで下山し、二荒山神社中宮祠前から再びバスに乗って、終点の湯元温泉で降りた。日も落ちかかっていた。 予約してあった小さな旅館に投宿した。
翌日は、早朝に起きた。旅館の朝食時間には早かったので、おにぎり弁当を用意してもらって旅館を出発した。 湯ノ湖の西岸を周り、湯滝から湯川に沿って戦場ヶ原を下って赤沼に抜けた。整備された平坦な散策路救世軍卜維廉中學を、鼻歌を歌いながら、お喋りしながら歩いた。
湯滝から泉門池への道の途中ではなかったかと思う。前を歩いていたSが突然、「ぎゃっ!」という声を上げた。 どうしたのかと思い、みんなが足を止めた。 Sが道の上に伸びた木の枝を指差している。そこから蔓のようなものが垂れ下がっていたのだが、よく見ると蛇だった。
「何だ、蛇じゃねぇか」 他の4人が蛇ごときで何を騒いでいるのだと、Sの横を抜けて蛇の巻きついた枝まで進むが、Sは枝の5メートル手前で凍りついたまま動こうとしない。まさにフリーズしていた。 気を取り直したSは、蛇の下を迂回して道の端を怖々と歩いてきた。 それからひとしきり、Sが蛇が苦手だという話題で盛り上がった。蛇を怖がるのは女の子くらいのものかと思っていたが、人は見かけによらない・・・
戦場ヶ原の木道を歩いたのは、この時が初めてだった。 それ以前に、同じ仲間と尾瀬に行ったことがあったが、乾燥化の進んでいる戦場ヶ原にはあまり興味をそそられなかった。 しかし、その後、何度か戦場ヶ原を訪れるうちに、小田代原を含むこの一帯の四季の美しさに惹かれるようになった。 尾瀬に比べれば遥かに投資產品アクセスも良いし、山小屋で鮨詰めになって寝る必要もない。
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| | | | | | | | 2016/08/23 15:39:58 プライベート♪ | | | 今回はラズベリージャム | |
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ラズベリーはバラ科バラ亜科キイチゴ属で、一般にはセイヨウキイチゴのことを指す。 学生の頃、山登りをしていて信州で野いちごをよくみかけた。信州に限らず、北関東の山の中にもある。野いちごとはいうが、総称してキイチゴ。種類も多く見分けがつかない。
キイチゴ以外にヘビイチゴもあるが、こちらはヘビイチゴ属。多年草で地面に這うように生えている。キイチゴの多くは低木。ちなみに、一般のイチゴはオランダイチゴ属で多年草。
キイチゴの原産はヨーロッパ。一般的にラズベリーと呼ばれているセイヨウキイチゴは、最初にイギリスで栽培されたそうだが、日本ではあまり栽培されてなく、八百屋の店頭に並ぶことも少ない。 そんなわけで、アメリカ産の冷凍ラズベリーを手に入れて、ラズベリージャムを作ることにした。
作り方はいたって簡単。鍋に入れて解凍させ、砂糖とレモン汁を入れて煮ればOK。冷凍されているので煮崩れるのも早い。 問題は種で、ジャムにした時の歯触りはかなり悪い。気にしないという人もいれば、気になるという人もいて、後者の場合は、裏ごしして種を取り除く。
冷凍の場合は時期に関係ないが、苗木を買って栽培することも可能。収穫時期は梅雨時になるそうだ。 raspberry2.jpg ラズベリージャム(冷凍) (材料) 冷凍ラズベリー:500g、砂糖150g、レモン果汁:大匙1、リキュール少々 (その他) ホーロー鍋、ヘラ、ガラス容器 1.冷凍ミックスベリーを解凍し、鍋に入れる。 2.砂糖を加えて水を出し、中火でかき混ぜながら沸騰させる。 3.弱火で煮詰め、紫色の液が浸み出したらレモン液を加える。 4.実が軟らかくなって崩れ始め、とろとろ感が出たところでリキュールを振りかけ、かき混ぜて火を止める。 5.熱湯消毒したガラス瓶にマーマレードを移して蓋を閉め、室温で冷ましてから冷蔵庫で貯蔵。
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| | | | | | | | 2016/08/10 13:01:43 プライベート♪ | | | 東京では最初の開業だったそうだ | |
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黒部ダムのオフィシャルサイトを見ると、トロリーバスの歴史や特徴が紹介されている。 普通のバスと何が違うかと言うと、要するに電気を動力にしている。しかもバッテリーではなくreenex 效果て、道路の上の架線からトロリーポールという集電装置で電気を取り入れる。道路の上にトロリーバス用の架線があればタイヤでOK、路面電車のような軌道は必要ない。 黒部ダムのオフィシャルサイトには昔のトロリーバスの写真も掲載されているので、百聞は一見にしかず。現在でも、モスクワ、北京、広州、メキシコシティ、ポツダム、ミラノ、バンクーバーにはトロリーバスが走っているそうだ。
さて、東京のトロリーバス・・・ 1952年の今井・上野公園間が。この路線は、今井(江戸川区)から亀戸、押上を経由して、浅草観音裏から言問通りを鶯谷・根津に抜け、不忍通りで上野公園まで行く。 このほかに3路線のトロリーバスがあったが、実はどれも池袋駅が起点となっていた。どうりで池袋駅前のトロリーバスが印象に深かったわけだ。
このうち2路線は、池袋駅前から明治通りをそれぞれ右回り、左回りしている。右回りは、池袋駅から明治通りを西巣鴨、王子、尾久、新三河島、三ノ輪、泪橋、東向島まで行って、亀戸駅が終点。 左回りは、池袋駅から明治通りを南池袋、四谷三光町(新宿5丁目)、渋谷駅まで行き、ここで玉川通りに入って大橋、さらに山手通りに入って中目黒、大崎広小路、そして五反田駅から御殿山に抜け、品川駅で終点。 4番目の路線は、池袋駅からの明治通り右回りと三ノ輪までは同じ経路で、明治通りを離れて吉原大門reenex cps價錢、浅草観音裏、六区、雷門が終点。
さて、東京のトロリーバスを覚えている人は、この4路線のどこかで見たわけだ。ちなみに全線開通が1958年、1967年から順次廃止となり、1968年にやはり今井・上野公園間が最後の廃止となった。 廃止の理由は、もちろん東京都内のモータリゼーションと交通渋滞である。都電同様にトロリーバスも道路の邪魔者扱いされた。同時に、地下鉄網の整備が進んだことも、廃止の大きな理由だったのだろう。
東京の地下鉄は、銀座線が戦前の1939年に全線開通し、丸ノ内線の池袋・新宿間の開通が1959年である。日比谷線の全線開通が1964年だった。 丸ノ内線と日比谷線の開通は、東京の商業地の盛衰に大きな役割を果たしたかもしれない。銀座線を含めて、いずれも銀座駅を経由した。このために、銀座の商業地としての地位が格段に上がった。当時は国電・有楽町駅が銀座の最寄り駅だったのだが、地下鉄3路線が銀座の真ん中に乗り入れることになった。 同時に日比谷線の開通は、それまでは陸の孤島だった六本木が、繁華街へと躍進していくきっかけともなった。
銀座の躍進とは逆に、地位を低下させたのが浅草だった。浅草にはもとより国電の駅はない。銀座線と1960年に一部営業開始した都営浅草線、そして私鉄の東武伊勢崎線の浅草駅があった。 日比谷線が開通すると、銀座が便利になっただけではなかった。日比谷線は東急東横線と東武伊勢崎線に乗り入れていた。とりわけ東武伊勢崎線は、北千住から日比谷線で銀座方面に乗り入れていたので、ほとんどの乗客が浅草には向かわずに、上野・銀座方面に向かってしまった。ラッシュアワーでも、北千住・浅草間の東武伊勢崎線はガラガラとなった。 浅草商店会の努力とつくばエクスプレスの開通で、最近の浅草は再び混むようになったが・・・
都営浅草線の全線開通が1968年、東西線の全線開通が1969年・・・その後も次々と地下鉄が開業し、今では私も把握できないくらいの地下鉄網となっている。そして、いつの間にかトロリーバスは姿を消した・・・
トロリーバスも都電も1960年代の終わりまで走っていたのに、実は私にはそれほど乗った記憶がない。トロリーバスは路線に縁がなかったせいで、たぶん乗ったことはない。都電は国電や地下鉄に比べれば時間が掛かり過ぎた・・・つまり、当時の私にとっても、都電はすでに無用の長物になりかかっていたのだ。
高度成長期にあった東京では、都電やトロリーバスは時代の進歩から取り残されていた。そして誰もが道reenex cps價錢路を占有する邪魔者だと感じていた。今になって都電やトロリーバスのことを懐かしがるのも、単に失われたものへのノスタルジーに過ぎないのかもしれない。 私たちは、この東京の便利さと引き換えに、都電やトロリーバスの走る東京など求めてはいない、たぶん・・・ 東京に住む多くの人たちは、東京にスローライフなど求めてはいない・・・
さて、都電だが、こちらは41系統あったそうだ。池袋駅についていえば、東口のロータリーから護国寺方面に行く都電があった。 17系統・池袋線が池袋駅前から護国寺まで走っていたが、1969年に廃止された。この17系統は、護国寺から不忍通りを大塚3丁目まで、さらに春日通りを伝通院、後楽園、さらに白山通りを水道橋、神保町、そして外堀通りを錦町河岸、神田橋、新常盤橋、呉服橋、東京駅八重洲口、数寄屋橋まで行った。
都電に乗ると、乗り換え切符というのがあった。千住4丁目から上野駅を経由して水天宮まで行く21系統という都電があったが、秋葉原で乗り換え切符をもらって13系統に乗り換えて四谷三光町(新宿5丁目)まで行った記憶がある。少なくとも1968年以前のことだ。 四谷三光町の都電の駅は伊勢丹前にあったが、つらつら考えても何しに行ったのか良く思い出せない。たぶん中学生だったと思うのが、一人だったし、とても伊勢丹に用があったとは思えない。 紀伊国屋書店に行ったのだろうか・・・国土地理院の5万分の1の地図か、天気図用紙でも買いに行ったのかもしれない。
(写真/昨年12月、北京のトロリーバス。ちなみに撮影者は私ではなく、連れ合い・・・)
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