| | | | | | | | | | | | | | | | | 2016/08/03 23:10:21 プライベート♪ | | | シング・ストリート/ロックよ、愚かに流れよ | |
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背伸びした分だけ伸びていくコナー(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)の背筋と髪と歌声は確かに眩しくて煌めいているのだけれど、観ていて抜き差しならなくなったのは「ロックンロールはリスクだ!」という蠱惑に囚われたブレンダン(ジャック・レイナー)であって、すべてを見通していたつもりがその一歩を踏み出すほどにはリスクに殉教しきれなかった世界中のブレンダンの亡霊に、今さら成仏を迫るような役どころはなかなか酷に思えたのである。主人公の脳天気な弾き語りから始まるあたりは『FRANK』など思い浮かべたりするのだけれど、そこでのジョンとFRANKの関係にあった現実的な痛みは、デペッシュもジョイ・ディヴィジョンも知らないおぼこなコナーとロック原理主義者ブレンダンとの関係において清々しいほどに反転していて、ボスキャラとして必要なバクスター神父(ドン・ウィチャリー)より他は祝福されたバンドに立ちふさがるものはなく、地元の英雄であっただろうU2のUの字もないままアイデンティティの相克は極力手控えられファンタジーが維持され続けることで、あのラストからかつてアントワーヌのラストショットに立ちこめた悲痛や悲愴を取り除くことに見事成功している。青春が夢見がちでいったいなにが悪いんだ?という開き直りというよりは闘争宣言の強度を高めるためであったにしろ、ブレンダンがコナーにぶつける屈託の苛烈はそれが大人気なければないほどブレンダンの悔恨とジレンマにえぐられるようで、そのどこかしらの他人事でなさは、コナーのファンタジーへの反作用にとどまらずいくばくかのノイズになりかけたほどである。そしてそれは、暴力をふるうアル中の父を持ち、いつだって一人だものねと母親に揶揄され、ロンドンでレコードの契約とって俺たちをこの掃き溜めから連れ出してくれよと笑わない目で告げるエイモン(マーク・マッケンナ)へのやるせない共感にもつながっていくわけで、しかしロックンロールが斃れた屍の上を転がっていく音楽である以上そうやって流れ去っていく風景が新たなリズムとメロディを生み出していくのは言うまでもなく、兄と別れバンドを振り切り、おそらくはラフィーナ(ルーシー・ボーイントン)とも離れ離れになるであろうコナーの正しさはすなわちロックの正しさであるはずで、なぜなら浅井健一が歌ったように、どれほど自然に/真剣に誰かを愛しても、僕たちは永遠に一人きりだということを知るのがロックの解だからなのである。ところで、当時ジョー・ジャクソンとザ・ジャムとザ・キュアーの愛聴者がホール&オーツを聴いていた記憶になじみがないものだから、フィル・コリンズを聴いてるような男を好きになる女なんていない!と言い切ったブレンダンが「マンイーター」をチョイスするのはありなのかと?が浮かんだのだけれど、今になってみればそういうセクト主義が自分で自分を生きづらくしていたことに容易に思い至ったりもすると同時に、85年と言えばタイガースが日本一になって代々木でスプリングスティーンをみた年であったにもかかわらず何だかその頃は下ばかり見て歩いていた記憶しかなくて、そんなこんなをいまだにノスタルジーで済ませることが叶わない自分にいい加減うんざりしているのも正直なところで、そんなつもりもなく観たこともあって何だか奇襲をくらった気分である。敵はどこにもいないのに。
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