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お疲れぷろぐらま
ソフトンハウス製作日記
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2011/06/29 23:04:46 プライベート♪
東日本大震災
真実はどこに(5)

久慈から野田村への道も順調。距離もあまりなく、山間部を通るためか特に印象に残らない道だが、野田村に入ると突然破壊された町が現れる。

IMG_1821_R

 瓦礫撤去が進んでいるせいか、粉じんはあまり感じなかったが、その分遠くまで景色が見渡せた。上の写真は堤防側から内陸部を見た風景。八戸から南下してくると、この辺りからの被害が大きいと感じる。ビジュアル的に壊滅の様子が身に迫ってくるからだろう。

 海沿いに行ってみると、堤防が破壊されているのが見て取れる。下の写真がそうだが、拡大して人の大きさと比べてみて欲しい。

IMG_1837_R

 その堤防のすぐ内側である。多くの木がなぎ倒され、堤防が破壊されても、津波のエネルギーは止まらず、役場のすぐ手前まで津波が襲った。

IMG_1838_R

 町から撤去された瓦礫の山は、少し離れた場所に山積みになっていた。この様な山積みは沿岸の町に必ずと言って良いほどあり、陸前高田などは、この山が町中のいたるところに点在している。

IMG_1839_R

 実際、この瓦礫を後で分別し処分する事になる訳だが、誰かが勝手に無償でやってくれるはずもない。処分には2〜3年かかる地区もあるだろう。瓦礫には汚泥も多く含まれているため、衛生面でも心配がある。事実、この記事を書いている頃には、丸々と太ったハエがいたるところで飛び交っていると聞き及んでいる。ハエトリ紙が人気商品の様だ。

IMG_1795_R

 野田村役場の近くには物資集積場、避難所があり、その一角だけ人が多かった。カメラをぶらさげての取材であるが、幸い「何しに来た!」という罵声を浴びる事はなかった。役所の中は至って平穏で、ある程度片付けが終わってひと段落した状態である事が一目で分かった。

 こういった町では防災システムも破壊されており、その再構築は急務である。もちろん、役場の担当者はしかるべき上流の行政にその辺りを伝えに行ったようである。同規模程度の他の町と比べて瓦礫の撤去が進んでいる現状に、職員は少々自慢げであった。

 ここから普代、田野畑村へといく訳だが、リアス式海岸が険しくなるエリアであり、震災直後は孤立したであろうと予想される。

つづく。

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Posted by iSPP's SS (2011/07/01 06:33:14) 通報
田野畑村について

昨日、参加している早稲田環境塾の授業で田野畑村と早稲田大学の50年以上におよぶ交流についての報告がありました。
その昔、早稲田の小田泰市先生という方が、学生の自然教育、実践教育の場として田野畑を選ばれたのが交流の始まりだそうで、震災後支援GWに支援に行ったOBと現役学生からの報告もありました。彼らはしいの木を植えた「思惟の森」のお世話の手伝いもしています。シイはやっぱり広葉樹。別の視点からの田野畑ルボ楽しみにしております。
Posted by お疲れぷろぐらま (2011/07/01 12:02:39) 通報
コメントありがとうございます。
そのような歴史があったのですね。田野畑村は復旧も早そうでしたから、今後の復興が楽しみでもあります。次回は頂いた情報の視点からもルポできたらと思います。
2011/06/27 18:13:36 プライベート♪
東日本大震災
真実はどこに(4)

久慈市に至る道も究めて順調な流れで、一度も渋滞に合う事はなかった。ただ、久慈市は比較的大きな街なため、市内はところどころで混雑している。

港は後片付けが進み、がらんとした空間になっている。港の外も瓦礫の撤去などは進んでいるが、まだ至る所が埃っぽい。久慈市の堤防も立派なものであるが、ここもまた10メートルの津波で楽々と超えられてしまった。海岸工学委員会の計測では潮位補正後で9.8mだったとのこと。

IMG_1781

ただ、堤防自体は特に際立って崩れた部分は見当たらない。強度は十分だったのだろう。

IMG_1785

久慈の街は極めて平静で、埃っぽさやところどころにある瓦礫、破壊された建物を見なければ、通常の生活と変わらない風景だ。

IMG_1777

久慈市の合同庁舎は比較的港から離れた場所にあり、被害もなかったのだろう。比較的新しいのか、明るく、雰囲気的に殺伐とはしていなかった。

洋野町から久慈に向かうと、久慈には45号線の大きな橋がかかっており、ともすると行き過ぎてしまう。私も行き過ぎてしまって戻った。街も開けた明るい雰囲気があり、他の町や村とは少し風景が異なっていた。なるほど「市」なんだなと思ったが、実際、下に降りてみると、ここもまた被害が大きかった。ただ、大きな市なのに瓦礫は思ったより少ない。

後で気づいた事だが、瓦礫の量は5万トンと、宮古市の116万トンに比べ、市としては多くない。海沿いに木造住宅が少なかった事もあるだろうし、あるいは久慈市の都市計画が功を奏したのかもしれない。なんと野田村でさえ11万トンなのだから。ちなみに、久慈市の人口は約38,000人、野田村は約5,000人、宮古市は約60,000人なのです。

やけに都会的な雰囲気を持つ街だと思いつつ、次の野田村へ出発。

つづく。

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2011/06/25 00:36:21 プライベート♪
東日本大震災
真実はどこに(3)

そもそも早起きしたのは、沿岸の道が混むであろうと思った事だった。

 八戸市内を抜けるときは通勤時間にかかりつつあり、若干混みはしたものの、洋野町に向かう道は順調そのものだった。

 洋野町は死者はなかったものの、ウニなどの名産が打撃を受けている。いちご煮やうに丼はこの地の名物でもある。

IMG_1774_R

 後に役場の方とメールでやりとりして判ったのだが、被災直後は電気が落ち、テレビも見れず、携帯ラジオなど持っている者もなく、携帯電話も、ましてやインターネットも使えず、頼みの綱の地デジも見ることができず、情報が全く入らなかったそうだ。さぞかし心細かったことだろう。

 私は現地で話を聞いたとき、避難所で地デジが観られないのかと勘違いしてしまった。都市圏に住んでいる人は、上記メディアのうちのいずれかは使えたはずだが、このように何も使えなかった地域も存在するのだ。洋野町は本州にあり、決して孤島ではない。

 地デジの事では私も被災直後に不便な思いをした。国見で高速を降り、仙台に向かう道のりで車に搭載していた地デジを観ていたのだが、山陰に入ったとたんに見えなくなってしまう。特に渋滞していると数キロ進むために1時間もかかってしまい、その間も見えない時間が続いた。

IMG_1771_R

 実はあまりに早く到着したため、40分ほど待っていたのだが、その間に浜を見に行ったり、役場の一階を物色していた。洋野町役場は写真の通り吹き抜けの上に天井から日差しが差し込み、とても明るい雰囲気。ただ、中央部分の片側が円形にせり出しており、若干窮屈感がある。三陸の地形を模したのだろうか。

 ところで、三陸沿岸を縦断する45号国道だが、道の標高が低く浜に近い部分には看板が立っている。「これより先、津波浸水想定区域」と、「津波浸水想定区域、ここまで」の2つである。

IMG_1776_R

IMG_1775_R

 どうにも不思議なのは、けっこう標高の高い場所にこの看板がある事だ。今回の津波ではこの場所を超えて押し寄せたところもあるようだが、多くはここより下か近くまでで止まっており、そこまで想定していたのなら、もっと高い堤防を作っていても不思議はないという事だった。ただ、堤防の多くは後ろ側を土砂で覆う事で強度を保っており、津波が堤防を越えとしまうと後ろ側が掘られてしまう事から「パタ」っと倒れてしまう。高層ビルのように地盤まで杭を打っていた訳ではないのだ。今後、そのような作りの堤防は無くなるだろう。

 生態学者の宮脇昭氏は、この土砂の堤防に木を植える事を提唱している。効果のほどを疑問視する学者もいるのは事実だが、針葉樹林の根は強く、まんざら無駄ではないと私は思う。私は面識がないのだが、私が現在活動しているiSPPの方からその話を後日聞いた。

 洋野町のような街にもひとつのドラマが存在したのが今回の震災。ニュースには出ない街ではあるが、被災者は一様に当日不安な夜を過ごしている。次の目的地は久慈市、りっぱな堤防を持つ市である。

つづく。

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2011/06/24 11:25:00 プライベート♪
東日本大震災
真実はどこに。(2)

 盛岡を出発して、八戸に向かう途中の高速道路は車がまばら。震災前もそうだったのだろうが、盛岡での車の流れを考えると少し寂しい。三日目に宿泊した時に思ったのだが、盛岡から宮古に向かう道路より、花巻から釜石に向かう道路の方が圧倒的に混んでいる。これは遠野が後方支援の基地になっている事や、陸前高田などの地区に向かいやすいという利点と、峠が少なく大型のトラックが通りやすいからだろう。

 一泊目、八戸の市街地に宿泊。駐車場で車の幅がぎりぎりな点を指摘され、車が設備にひっかかったりすると賠償がどうのこうのと、はっきり「入れられません」と言われない事に腹が立った。震災後、どこかの役所の人も似たような言い回しで断っていたっけ。それを思い出してしまった。結局「お勧めしないんですよね?」と聞いたら「はい」と言うので、近くの駐車場に入れた。最初からそう言え。そう心でつぶやいた。

 ホテルで翌日のスケジュールと走る距離の確認をし、食事に出かけた。幸い、ホテルのほどよい近くに文化財並みの料理屋さんがあったのでそこに入る事にした。料金はやや高めだが、した味に十分手間をかけており、納得できる味。客層を観察してみると、どうやら接待やデート、カウンターでは地位のある人が一人で食べている、そんなお店らしい。壁に貼ってあるレトロなポスターを眺めつつ郷土料理に舌鼓を打っていると、余震が起きた。

IMG_1752_R

 仙台にいると、岩手県沖の余震はあまり感じない。しかし、ここ八戸ではグラグラと揺れている。近いのかと思い地震の発生源を追ってみると、八戸と仙台のちょうど中間地点なのだ。出発前の情報でも八戸は地震が多いと言われてきたのだが、その意味がやっと解った。回数ではなく、体感が全く違うのだ。1ランク上の余震に感じる。

 翌朝は6時に出かけ、まずは八戸港に向かった。ちなみに私は朝食を食べないので支度は早い。八戸港は震災時に小学生が調査船に取り残された港である。写真のように市場は下の部分が流されて解放されてしまっているが、中はきれいに片付いていた。

IMG_1765_R

IMG_1769_R

IMG_1759_R

 ただし、被害がなかったわけではなく、今でも隠れた部分に爪痕が残っている。建物もいくつか掃除されていない状態で残っていた。朝の港にはまだ漁師の姿はなかったが、復旧のためだろうか、作業着を着た人が数人立ち話をしていたり、車で誰かを待っているようだった。

IMG_1761_R

 港で30分ほど過ごしたのち、洋野町に向かうのだが、その途中、市内では小学生が通学する時間帯にぶつかった。そういったときによく見られるふざけあって笑い声が聞こえるような光景ではなく、急ぐように歩いていたのが印象的だった。

 余談だが、この記事を書いている2日ほど前、震度5弱の余震がここを襲った。その直後に港の近くの人はみな走って逃げたらしい。堤防が壊れてしまっているため、比較的小さな津波でも奥まで入り込んでしまう事を懸念しているとの事だった。先に書いた通り、八戸では余震の揺れがなぜか大きい。いつまた余震があるかわからない、その恐怖感がまだ続いているようだ。

続く。

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2011/06/24 00:25:11 プライベート♪
東日本大震災
真実はどこに。

記憶を留めるために、書き殴り連載します、誤字脱字はご容赦下さい。

5月の終わり、31日に八戸に入った。

 八戸に入る前、岩手県立大学へ立ち寄り、お世話になった教授のお話を聞いた。今回の震災では、後方支援として多くの方が関わっており、ここ岩手県立大学もそのひとつである。

IMG_1749_R

 宮城県・白石の高速道路上で被災した私は、仙台市内に戻るまでに9時間を要した。実は郡山の実家に戻りたかったのだが、仙台に住居を持つ社員が2名いたため、そちらを優先して仙台に戻った。戻り道、橋のゲタがズレて段差ができた道路、高架線が倒れた新幹線の高架橋、いたるところにあるひび割れ。そんな様子を脳裏に浮かべ、東北道を北に向かったのだが、100Kmで走るには十分すぎるほど修復されていた。あえて難を言うなら、仙台北部道路が酷い。しかし、それでも十分な速度は出せる。

 岩手県立大学に震災の爪痕は見当たらず、学生もいたって明るかった。もちろん20代初頭の若者が数か月前の震災をひきずり、暗く過ごしているはずもなく、そこに若さゆえの生命力と言うものを感じた。誰がこの世から消えようとも、彼ら、彼女らは逞しく生きていかなければならないのだから。

IMG_1748_R

 今回の震災でご苦労された岩手県立大学にしても、ツイッターでは教授にまかせてて良いのか的な発言を受け取った。どの教授ではなく、すべての教授を指し示すその言葉は、常日頃、一般市民と隔絶された場所で研究を続けている事からなる閉鎖的な雰囲気からくる感情だろう。また、原発問題で発言している専門家と称する教授の発言に飽き飽きした市民の反応なのかもしれない。いずれにしろ、この岩手県立大学の教授はご苦労されている。1つが全てではない事を付け加えておく。

 盛岡県庁も震災の傷跡らしいものはなかった。だが、こちらは行政という事もあり、震災から続いているのであろう緊張感がそこにあった。緊張感を感じるのは節電のせいもあるだろう、どことなく薄暗く、明るい復興にはほど遠い雰囲気である。人間には希望の光という言葉があるように、光は感情的にも重要な位置を占める。原発の失敗は、こうした人間の心にまで作用する深刻なものであることを忘れてはならない。それにしても、この暗さは宮城県庁の比ではない。建物の作りもあるのだろう。宮城県庁のロビーは3階まで吹き抜けで、とても明るい。仙台市のメディアテークや宮城県立図書館は周りの景色から浮きすぎて違和感がある。私は好きではないが、宮城県庁の建物は好きと言えば好きだ。落ち着いたたたずまいだから。

盛岡県庁
IMG_1751_R

ゴーフォワード・ジャパンという組織の方にお世話になり、震災後の事を聞きつつ県庁に連れて行って頂いたのだが、実際の盛岡はかなりの温度差があり、何事もなかったような雰囲気であるとも話していた。事実、確かに平穏で、市民は何事もなかったように過ごしている。今は離れるが、この盛岡には、翌日の夜再び戻ってくることになる。被災地の近くの宿は一杯で宿泊が困難である事、支援者が泊まる宿を奪う事はできないこと、そういった事から沿岸から内陸まで毎日戻る事にしたのである。

続く。

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